「『スティーブ・ジョブズ』を忘れる」ことが我々に求められている

スティーブ・ジョブズの死は、それ自体として惜しむべき事態であるが、おそらく惜しむべきことはもう一つあるだろう。そして、残念ながらそのことについて記載されている文章は(私の観測の範囲では)ほとんど存在しない。ということで、私はスティーブ・ジョブズについてではなく、彼を取り巻く全体――いわゆる「アップル教」といわれるもの――について、少し書いておきたい。

「英雄化」は再帰的に行われる

我々は今まさに彼の英雄化・伝説化に現在進行形で直面しているが、これは(もちろん)結果としてiPodiPhoneiPadを成功させたという事態から再帰的に過去が再定義されているからこそ発生しているもので、そこから捨象された様々な「問題点」は依然として我々の前に存在しているはずである。故に、我々は「スティーブ・ジョブズ」という人物それ自体を賞賛するのではなく、彼の成し遂げた「偉業」については賞賛する一方で、その他の点についてはより精密に吟味する必要がある。
例えば、私が持っている『スティーブ・ジョブズ:偶像復活』という本では、「エレベーターの中で彼とばったり出くわしたとき、一言も会話してはならない。なぜならば不用意な発言は解雇を招くからである」ということが書かれている。このようなワンマン行為は、一般的に「成功すれば賞賛され、失敗すれば叩かれる」ものであるが、この一般論はここでも当てはまる。つまり賞賛で幕を閉じたのは、彼が最後に「成功」を納めたという事実が存在するからであり、彼自身の人格と行動、そして結果は、それぞれ分けて(そして連関する部分についてはその説明を加えた上で)考察されなくてはならない。

ジョブズ不在」を認めること

そして残念なことに、行為と人格を完全に誤解した人々は、「スティーブ・ジョブズ」という象徴が消えてしまった、ジョブズ不在のアップルに対し不安で不安で仕方がないようだ。しかしこれらは、二つの点で大きく間違っている。
一つ目に、行為と人格、結果を分けた場合、ジョブズの人格にとって最適な行為を選んだことによりこの結果がもたらされたのであって、その人格と行為が万人にとって最良の選択であるという意味において正しかったわけではない(例えば「経営者かくあるべし」という議論を成立させてはならない)。ゆえに、アップルの次の手は、「ジョブズならどうするか」という観点から評価されるべきではない。
おそらく、「彼ならどうするか」という視点は、消費者にとってもアップルにとっても不幸を産むのだ。アップルは、象徴に縛られることによって、「ジョブズ不在のアップル」なりの<自由>を表現することが出来なくなり、また消費者も彼を基点として物事を考えることによって、判断基準を誤る。そして残念なことに、これらは「ジョブズが不在であってもアップルは依然として革新的な端末を出し続けることが出来るのだという証明」を行っても消えることはない。彼らがアップルで有り続ける限り、スティーブ・ジョブズの幻影に「我々消費者」が縛られ続けるからだ。ゆえに、我々がいち早く彼の「特異性」を認め、それが「アップルにとっての普遍形ですらない」ことを認めなくてはならない。

そして二つ目が、ジョブズ自身が、人々が彼を常に想起し比較することを望んでいない点である。日本語の文章では翻訳がわかりにくくなっているが、原文では「死」について次のように述べている*1

It clears out the old to make way for the new. Right now the new is you, but someday not too long from now, you will gradually become the old and be cleared away.

「死とは新しき者に古き者が道を譲るために存在しており、新しき者もいつかは古き者になり消えていく存在である」と彼は主張している。彼は死によって道を譲ったのである。譲られた道を、いつまでも過去を掘り返して「ああいうふうにすべきなのだ」と主張することは、おそらく本人も望んでいない。今後、本田宗一郎松下幸之助と同じように、彼の成功や方法論を拡大解釈・哲学化・普遍化した「ビジネス書」が大量に出回るのだろうが、必ずしもそれが普遍形でないことは、必ず念頭に置かなくてはならないことであろう。
もちろん、「ジョブズ不在のアップル」という言い方は、それ自体ジョブズの象徴化を支持する言い方である。おそらく、消費者そしてアップルが「ジョブズ」という固有名を徐々に忘れること、それが(逆説的ながらも)彼の「偉業」を認める最も最適な方法ではないか。

彼は確かに革新の中心に居続け、人々を魅了し続けたのかもしれない。だからといって、彼がいなければ革新が行われないわけでもない。また、革新の方法として普遍的にそれが正しいわけでもない。しかし、彼はコモディティ市場においても我々は<何か>を常に求めていることを証明したのだ。その事実だけを認めること、そして彼だけが正しい方法ではないこと、それを「コア」として抜き出し、それだけを追い続けることによって、我々は世界に新しい商品を提供したり、あるいは魅了されることが出来る。それだけが残り、彼の固有名が忘れ去られることが、我々にとって一番幸せなのではないかと、私はそう考えている。

*1:原典を当たることはアップル原理主義者の使命である

日本のスタートアップ環境は「特殊」か?

最近の起業家は気持ち悪い、そしてそもそも起業家ではない。」を読んで。
大学入学以来、僕は意外と多くの「学生起業家」と呼ばれる部類の人間と会ってきた。そして、実際のところ米国における現状がいかなるものであるかはほとんど知らないのだが、国内の状況についてはある程度経験的に答えを導き出せると考えている。

日本のスタートアップ環境は、企業の評価を人物のみで行う。その人が有名であるか否かでだ。

一言で言ってしまえば「認知バイアスのせい」なのだが、もうすこしきちんと説明してみよう。はっきり言ってしまえば、こんなのはインターネット上でしか起業家を見たことがないからこそ言うことの出来る戯言である。おそらくこの記事では「スタートアップ環境」というものが具体的に明示している対象が「ソーシャル・メディアにおいてどの程度の速度で(あるいは範囲に)新規プロダクトのリリースが知れ渡るか」ということのみであり、一般的にスタートアップにおいて必要とされる「人材」と「資金」についてはほとんど明示されていない。もしかしたら、氏はこの世の中に「面白いウェブサービスを個人で作れば、有名人がやってきてサクサクと資金や人材の面でサポートをしてくれる」という淡い幻想を抱いているのかもしれないが、残念ながら日本にはそのような仕組みはほとんどないといって良い。本当に起業し事業を大きくしていこうと思えば、初期投資用の資金や人材を入れることは不可欠であり、必然的に「声の大きい」(「”この人はすごそうだし、何かやるぞ”と思わせる人」)人間が成功に近づくことになる。

例えば、資金をベンチャー・キャピタルに借りに行くとしよう。何人かのプロに自分の計画を見てもらうことになるが、そのときにはアイデアの素晴らしさと同時に計画立案の能力やスピーチ能力が多分に図られることとなる。もちろん、アイデアの素晴らしさだけを起業家に要請し、それが素晴らしければ計画立案やプレゼン・スピーチについてはVC側で人材を提供するというのが望ましい状態ではあるが、残念ながらこの国ではそのような支援の仕組みはほとんど存在せず、基本的にその人物個人に求めることとなる。悪く言ってしまえば、口が達者な人間でなければ、そもそも「事業を興す」ということは難しいのだ。

氏は

日本のスタートアップ環境は、薄暗い部屋でコードを書き続け、未来を作っている薄汚いギークよりも、
世間の空気に媚びへつらい、自分を偽装するのがうまいタレントを欲している。

と言っている。ではその想定されている「薄汚い部屋でコードを書き続けるギーク」というのは、はたして米国においては多数派を占める存在であっただろうか。例えば氏が挙げているザッカーバーグは、映画の中では一貫してそのような人物として描かれていただろうか。実際のところ、彼もまた、ショーン・パーカーに「自分を偽装」していたのではないか。あるいは、たとえそうではないとしても、明らかに「自分を偽装」していた存在であるショーン・パーカーなしに、事業の拡大は円滑に行われていただろうか。私はそうは思わない。

インターネットの世界は日進月歩であり、今日サービスをリリースしなければ明日別の人間が同じサービスをリリースしてしまう可能性を秘めている。だからこそプログラミング・資金調達・人材調達の全ての面において「スピード」が一貫して求められており、無名の一人がそれを行うためには、自分を偽装してよく見せるしかないのだ。そしてそれは、成功すれば「偽装ではなかった」と言われ、失敗すれば「偽装であった」と呼ばれる。ただそれだけのことである。

最近の学生起業家が気持ち悪いというのはまさに同意である。しかしそれは、気持ち悪いという心証を作り出す様々な属性がなければ必要な資材を手に入れることが出来ないという状況から来ているものであり、そもそも彼が述べるような「真摯で真面目な起業家」というのは、構造からして起業することも出来なければバックアップをする価値すらないのだ。誰が学生起業家をバックアップするのか。ベンチャー・キャピタルやインキュベータがほとんど存在しない日本においては、必然的に「まず目立つ」ことが重要となる。インターネット上でのみ「声の大きい」人間も、確かにいるだろう。しかし、インターネットですら声が大きくないような現状では、人々には見向きもされないのだ。インターネット上で有名になると言うことがある種の登竜門となっており、それを「クリア」出来ない人間が素晴らしいプロダクトを作れるなんて、実際に学生起業家達を相手にするような層の人間は、到底思っていないのである。それが拡大再生産されているのが、現在の姿であると言うことが出来るだろう。


日本における「学生起業」のほとんどは受注や委託、下請けである。学生が起業することによって、かつて大企業で新卒一年目の社員がやっていたようなことが、より低価格に外部へアウトソーシングされるだけであり、基本的な人材のピラミッド構造においてはほとんど変化はない。しかし彼らも、受注案件に好きで甘んじているわけではない。何がモチベーションとなるかと言えば、それは経営トップの「カリスマ」であり、計画であり、未来への欲望である。「世界を変える」と言った方が能力や意欲に溢れた人間が集まるのであれば、そんな気持ちがなくとも「世界を変える」という。そして氏のいうスティーブ・ジョブズ率いるアップルも、あの有名な「Think Different」キャンペーンで言っているではないか。「彼らはクレイジーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから」と。自分が世界を変えられると信じることの出来ない者に、優秀な人材は集まらない。

おそらく日本において「起業家」を気持ち悪く無くさせる方法というのは、秀逸なアイデアを持っているものの起業に結びついていない者、例えば計画立案能力や資金調達能力を持たない者や、そもそも意欲のない者をどのようにバックアップしていくか、という点にある。例えばアイデアのみを一定額で買い取るようなモデルや、VCが企画や調達について全面的に協力することによって、そういったことは可能となるだろう。しかし、そのような状況を作るには、起業において辛酸をなめたものの最終的に成功した人間の強力が不可欠である。だが、スピードが求められるインターネットビジネスにおいて、強烈なカリスマ的魅力を持った人物がいなければ、いったいどのようにして会社が運営されていくというのだろう? ある意味、氏のような幻想を打ち砕く最も簡単な方法は、成功した外資ベンチャーでも未だにある面では「タレント」を起用しているという事実――Googleは未だに「Google」ブランドに縋り、マイクロソフトは「Windows」というブランドネームに対し「世界的な事業戦略においてまでも」未だに依存しているという端的な事実――を突きつけるだけで良いのかもしれない。

※今回は大変にポジティブな書き方をしましたが、これまでに「理念なき」起業を何度か批判しており、現在においても理念をソーシャルメディアにおける意識高揚において代替するあり方については疑問を感じています。以下の記事をお読み下さい。

GoogleのMotorola買収で、どの弱点が解消されるか?

GoogleMotorola買収という劇的なニュースに対して、識者によるコメント一通りチェックしてみると、(当然)ネガティブな意見とポジティブな意見を見ることができる。前者としては、HTCやSamsungといった既存の大手端末メーカーが苦境に立たされるのではないかということ、後者は莫大な金額に上る特許訴訟においてMicrosoftAppleに対抗することができるようになるのではないかということ、がメインであるように感じられた。なお、本記事はGoogleには「本音」があるということを仮定してすすめることとする。

HTCやSamsungにとっては、確かに今回の買収劇は大きな脅威となるだろう――どこかで失敗してしまうと、彼らは「Motorolaのお零れに授かる企業」となってしまう。つまり、Motorolaこそが純正であって、その他のメーカーは永遠なる二番手に転落するということだ。弾氏が危惧する通り、これはかつてAppleが互換機市場に乗り出し結果として大失敗を招いた構図と似ている。両社ともWindows Phone 7を搭載する端末も販売してはいるが、以前よりMicrosoftNokiaを買収する可能性があることが伝えられており、もし今回の一件がMicrosoftの危機感を煽ることとなれば、他社製のOSにハイスペック端末を大きく依存している両社にとっては大きな脅威となるであろう。

とはいえ、「AndroidOS」にとっては、私は今回の買収は非常に理に適ったものであると感じた。個人的に、現行のAndroidには二つの点でiPhone-iOSには及ばない点があると私は考えている。

公式的な「標準スペック」の公開とハードウェア最適化

Androidは、現在においても、肝心のスクロール動作やタッチ動作に関してもたつきやカクつきがある。これには特許の面や実装の面など諸説あるのだが、その「もたつき」がどの程度あるのかという指標として、(Windowsマシン市場と同じく)ハードウェアスペックとOSのバージョンが使われている。しかし我々は経験しているのだ、スペック表を見て、徐々に上がっていくスペックと急激に上がっていく価格を見比べ、どの価格帯の製品が最も自分の利用に合致しているのかを選ぶ作業というのは、実のところ次第に苦痛を伴う作業となっていく事実を。かつて携帯電話というのは、とりあえず買っておけばストレスなく動くというのがふつうであった。しかし今となっては、たとえばHTC AriaHuawei IDEOSを買ってしまった日には、その端末では何もできない事実にただただ唖然とするしかないのだ。そして、このような個体差は、明らかにAndroidというブランドそのもののイメージを傷つけもしている。
アプリ開発者においても、「標準スペック」が公開されていない以上、アプリは下から上までを網羅する必要があるため、最低スペックを考慮して開発することになるが、そうすると必然的にマシンスペックを必要とするような処理を行うことができなくなる。この傾向はゲームアプリに顕著であり、マーケットには「snapdragonを搭載した端末でお楽しみください」といった文言が並んでいる。携帯電話において、ユーザーに自分の持っているマシンのスペックについて認識してもらうことは、誰も得をしない行為なのである。それが楽しいのはあくまでも端末を購入する前に選んでいるときだけで、その後はどの価格帯のものを購入したところで、「アレにしておけば良かった」という後悔を生む結果としかならない。おそらくMicrosoftフラグメンテーションの加速によるブランド全体に対する信用の喪失から「端末はある程度スペックを固定化しないと、端末の性能差をソフトウェアで埋めるために多大な苦労を強いられる」ということを学習し、Windows Phone 7には一定の制約をかけている。

もはや現在のAndroidWindowsの弱点をそのまま引き継いでいるのだ。いくらハードウェアのスペックを高くしてもなぜかもっさりし、ウイルスの危険性は高く、複数のバージョンが乱立し、互換性の問題が残る。Googleはウェブを舞台とした企業であり、ハードウェアに対する理解が他社以上にあるとはあまり思えない。特に端末差やOSのバージョン差、ソフトウェアとハードウェアの「乖離」が、ブランド全体の価値を下げていることに関して、今を逃せば克服するチャンスはないだろう。

ここにおいて、彼らは「Nexus」ブランドを強化することにより、「このスペックなら問題ない」という指標を具体的かつ明確に提示することが出来る。あるいは、開発においてそのスペックに対し最適化を行うことで、現在の「なんでsnapdragonを積んでいるのに」という状態を打開できるかもしれない。そういう意味で、この弱点に対しては、Motorola買収というのは、Androidが大きく飛躍する可能性を秘めていると私は思う。

ソフトウェア自体の欠陥

こちらについては買収ではどうしようもない。何が言いたいかというと、Androidマーケットがほとんど機能していない点である。
Androidマーケットは自由であるという人がいる。しかし、私に言わせれば、これは自由ではなくカオスである。混沌と自由は大きく異なる。Androidマーケットは、統制者がいるにもかかわらる失政を行いその後怠けたがために「何も手の施しようがなくなってしまった」状態であるといっても過言ではない。ソフトウェアはすぐにコピーされ、課金システムは何が起こるか分からず、ウイルスを含むソフトはあり……こんなものを公式のマーケットとは呼びたくない。そもそもGoogleはソフトウェアに対してはピカイチのノウハウを有しているはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか、と言いたくなるくらいに悲惨な状態である。このような状態では、第一に挙げた点と合わせると、開発者もこんなところで開発をしたいとは思わないだろうし、利用者も情報の収集をマーケット以外に頼るようになる。ただし、Motorolaのお偉いさんはAndroidマーケットに対し何度か苦言を呈しており、「携帯電話メーカーとして」必要なことを彼らに対し口利きすることで、幾ばくかの更新は期待しようかなあ、とは思う程度には期待しても良いかなあと期待している。

Androidは、明らかに施策のミスによってブランド全体のイメージを落とし続けている。もっともGoogleとしてはそれで良かったのかもしれない。彼らは広告収入で利益を得る会社であるから、Androidであってもそれでなくても、Googleの既存のサービスと連携を図り、Googleに没頭さえしてくれればとりあえずはそれで良いのかもしれない。しかしMotorolaの買収によって自体は劇的に変化する。彼らは、OSあるいは端末の完成度に対して目を向けなくてはならなくなる。思うに、これが一番の「風」である。間違えた施策を行えば、端末メーカーはWP7――そこにはbingがありGoogleのサービスはない――に移行してしまうかもしれない。ある種Googleの本気というのは、まさに彼らの視座が変化することによって、つまりMotorola買収という象徴的なイベントの後に訪れるものであると、私は期待している。

我々はもう少しドコモに期待しても良いのではないか

本記事は「http://d.hatena.ne.jp/moto_maka/20110618/」に対するリプライである。但し、かなり雑多な内容をひとまとめにして記述するため、少々わかりにくいかもしれない。だが、たぐいまれなるiPhone/Apple厨である私も、そこから逆算するとどう考えてもドコモの次なる一手に期待するしかないこの現状を示すほうが先だと考え、アップロードすることにする。

そもそも「ガラパゴス」は蔑称ではない

近年、キャリア主導の垂直統合に代表される日本の携帯電話市場は「ガラパゴス」と揶揄されている。ワンセグおサイフケータイiモード等の機能を搭載するフィーチャーフォンは「ガラケー」と呼ばれ、この用語がつかわれ始めた当初は「日本の市場はガラパゴス諸島における生態系のように他国とは異なった進化を遂げている」というその事実だけを示す用語であったのに、いつのまにか「国際的に取り残された日本市場」のような意味が大きく取り上げられるにいたった。実際国際的に取り残されているのはその通りである。日本メーカーのフィーチャーフォンは他国ではほとんど売れず、海外市場ではサムスンノキアの一人勝ちが続いていた。そして先にあげた記事に書かれている通り、ドコモはこれらのソフトウェア資産をそのままスマートフォンに移植し、最終的にはガラケー上でできたことがすべてスマートフォン上で同様に動作することを目指している。

しかし我々は、この「ガラパゴス」性が、どのように他国で採用されるに至ったのかを、今になって説明することができる。まさに我々は、「iモード海外展開の失敗」と「iPhoneの成功」を、今真剣に見つめるべきではないのか。そして、私が思うに、先にあげた記事はその部分について多くのことを見落としているのである。

iモードの失敗

多くの方が知っている通り、iモードは海外展開に失敗している。失敗の原因については、wikipediaに書かれているようなことが一般的には使われる。

まず失敗の原因は日本国内とそれ以外の諸国でのケータイの取り扱いが主な理由である。日本では万能ケータイがもてはやされ、お財布ケータイなどの多機能化が進んだが、諸外国においてはケータイはあくまで「通話するためのもの・SMSを送受信するためのもの」であり、ケータイに対する使い方そのものが異なっていた。例えば日本国内では2011年現在においても自分のPCは持っておらずにケータイでメールからネットブラウズまで全て行う者が多数いるが、それ以外の国々ではメールやネットはPCで行うのが一般的であり、携帯でメールを使用するのはBlack&Berryなどを使用する一部のビジネスマンのみとなっていた。一般のユーザーが携帯でメールやネットブラウズを行うようになるのはiPhoneが登場してからである。しかしiPhoneはフルブラウズを可能としていること、各個人がもっているメールアドレスをそのまま使えること、といった「それまでの自宅で使用していたPC環境をそのまま表に持ち出して使用できる」を売り物にしたために大ヒットした。対してi-modeはあくまで「密閉された空間での簡略型HTML」という状況であり、ケータイでネットをする必要のない日本国外では全く受け入れられることはなかった。またバケットに対する拒否感も日本国外でi-modeが発展しなかった理由である。日本のようなパケホーダイのような仕組みがなかったため、「一体この通信で幾ら取られるのかわからない」という拒否感も発展を妨げた原因となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/imode

しかし、iPhoneをはじめとするスマートフォンが爆発的に普及した現在、「他国では携帯電話に対するイメージそのものが違っていた」という説明で終わらせてしまうのは、何か不自然な気がする。たとえば、2000年代前半にはTreoBlackberryが既に海外でも話題となっており、W-ZERO3が国内で投入される以前は「なぜ日本にはPDAはあってもスマートフォンはないのか」ということが盛んに愚痴られていたことを覚えている。つまり海外に高機能端末の需要がなかったというのは言いすぎなのだ。しかしこれらのスマートフォンはメモリの管理が必要で、パソコンを必要とし、何よりも揮発性メモリを採用していた(そして、wikipediaには「PC環境を持ち出せる点が好評だった」と書いてあるが、これらの理由により、それまで存在していたスマートフォンも、そもそも構造の制約上パソコンとの連携を前提としなくては使えなかったのである)。その点、日本のガラケーはそのすべての難点を克服していた。にもかかわらず、海外市場ではiモードはこれっぽっちも、TreoBlackberryに食い込むことなど一つもできやしなかった。それはなぜか。

理由は簡単である。キャリアを中心とした垂直統合のシステムが存在していなかったためだ。すなわち、キャリアがすべてをコントロールすることで、高機能な端末、すなわち売れるかどうかわからないメーカーにとって多大なリスクを持つ端末の開発が推奨され、消費者には補助金が出ることで端末料金を極力安くし、コンテンツもキャリアがサポートすることで誰にとっても安心の出来るものが揃えられ、さらにキャリアが主導してマネー・コントロールが行われることで、3Gネットワークに対する投資も適切に行われる――このようなシステムがなかったのだ。iモードは、iモードに対応したコンテンツがあって初めて機能する。しかし海外で展開するとなると、これらのコンテンツを最初から集めることは非常に難しく、一度普及しなくては各社は参入しない。コンテンツを参入させるためにはユーザー数が必要であるが、販売奨励金システムが使えないためにユーザー数をあらかじめ伸ばしておくこともできない。TreoBlackberryはリソースをコンピュータに依存するから良いものの、iモードはそれ自体で完結することを目指すため、そのようなことはできない。iPhoneAndroidが徐々に「PC離れ」しているのとは正反対だ。もっとも、これらは日本では「NTTドコモ」という巨大な信用があったから出来たのだということも忘れてはならないだろう。

iPhoneの成功

しかし、アップルの携帯電話事業参入により、このシステムが世界中で通用することは証明されてしまう。アップル社は端末とソフトウェア(もちろん、ここには当時のiTunes Music Storeによる課金システムを含む)を自分でコントロールし、AT&Tを丸め込むことで販売奨励金を手に入れ、また「iPod+iTunes」で培った莫大な信用力を担保として垂直統合システムを一気に作り上げた。初期のiPhoneには勝手アプリのシステムは存在しなかった(HTML+AJAXで作れ、というのが彼らの考えであった)が、のちにそれは撤回される。こうして、根本をなすプラットフォームはアップルがすべてを牛耳ることとなった。まさにここでは、NTTドコモが10年前に成し遂げたことを再現していることを再現しているといっても過言ではない。

課題から学ぶ

では、NTTドコモが2000年代に味わった辛酸といえばなんだろう。それは、垂直統合システムを解放せよという様々な圧力である。彼らは最終的に販売奨励金システムを変更し、MNPを承諾し、GoogleやYahooなど、勝手サイトを網羅する検索エンジンを受け入れた。「囲い込み」は依然と比べて弱体化した。同じことは、アップルやグーグルにも言えるかもしれない(もちろん、AndroidiOSに比べ自由度が高いというのは認めざるを得ないが)。その時に彼らが参考にするのはどこになるだろう。それは、まぎれもなく「今後数年間のドコモ」なのではないか。

では、ドコモはどのような手を打つだろう。私にそれを予測することはできないし、彼らが今何を考えているのかもわからない。しかし、執拗に「iPhoneはまだなのか」と問われ、「ガラケー機能はいらないわ」と言われ、「で、垂直統合システムを手放したあとどんな気持ち?ねえねえ(ry」と言われ続けている彼らが、まさかここ3年にわたって何も考えていないとは思わない。

先の記事において、ドコモに望むことは「iPhoneに負けない、日の丸スマートフォンを作って欲しい」だと書かれていた。しかしそれでは遅い。そしてそもそも、彼らは機種で儲けるのではなく、システムとして莫大な利益を得ていたのだ。iPhoneを獲得して、少しばかり契約者数が伸びたところで意味がないのである。
今、彼らが見つけたシステムは世界中を圧巻している。ドコモが次に放つシステムはどのようなものになるのだろうか。図らずも、我々は今LTEを目前に控えている。そして、LTEへの投資という側面を考慮すると、キャリアの取るべき戦略システムは「メーカーを主導とした垂直統合方式」とは異なる方向であるという事実に直面せざるを得ない(実際、AT&Tは2010年にパケット定額システムを廃止している)。

iPhoneを獲得すると、ドコモはシステムとして死んでしまう。そして、スマートフォン時代において、キャリアはどのように自らのシステムを維持していくべきなのか。これまでの文化をキャリアが生んできたという自負が彼らに残っているならば、そう簡単に「通信網のみ」の商売に切り替えはしないだろう。そして何よりも、日本にはキャリア以上に垂直統合に関するノウハウのある企業は存在しないのだ。後ろにはビューンやS-1を持つソフトバンクが迫っている。この状況下で、ドコモが「大企業病に陥り油断している」とは思いたくない。「世界」を受容しつつも「ガラパゴス」は「ガラパゴス」として発展させる、それが「ガラパゴス諸島」から学ぶべき知恵である。しかし、ガラパゴス性を保護することはできないことが、諸島とは大きく異なっている。

我々は「ガラケー」を再評価しなくてはならない。もちろん、彼らは同じ過ちを繰り返そうとしているようにも見える。たとえば、ハードを重視するあまりソフトウェアの完成度を軽視するという風潮は、ガラケーからガラスマへの流れの中でも一貫してみることができ、アップル社が「使い古されたハードと、最適化されたソフトウェア」で勝負しているのとは大違いだ。だが、2000年代に全盛期を迎えた「ガラケー」という文化は、決して「過ち」ではなかった。むしろそこには、時代を先取りしていたともいえる進化の種が隠されていたのだ。個人的な希望を言ってしまえば、ソフトバンクという「国際化」キャリアがいるのであれば(彼らは自分たちでの統合をするのではなく、海外の既存のプラットフォームや統合を認めたうえで、それを導入し、同時にさらに上のレイヤーでも勝負しようとする稀有なキャリアである)、それに対抗する形で徹底的なガラパゴス路線を追求してもよいのではないか。
来るLTE時代では、ほとんどすべてのキャリアで通信方式が統一される。おそらく、低価格化競争だけでは生き残ることはできないだろう。そして、たとえばソフトバンク等は、Androidで展開しているビューンなどのサービスを他社でも提供し始めるかもしれない。その時、ほかのキャリアが「インフラただ乗り」を唱えたところで、利便性を追求する消費者の目には「驕れるものは久しからず」にしか映らない。では、ドコモはどのように生き残るべきか?――答えは一つだろう。端末としての魅力ではなく、ドコモの提供するパッケージとして魅せるのだ。ドコモの「反撃」は、まさにそこから始まると、私は信じている。

なぜ彼はクレーンに乗らなくてはならなかったのか

先日、栃木県にて、クレーン車が暴走し通学途中の小学生をはね死亡させてしまった事故があった。もちろん加害者を擁護することは出来ない。彼はてんかんを持っていた。そして以前にも「未遂」を起こし、かつ薬の服用を怠ったがためにこの事件は起きてしまった。報道の通り薬を飲み忘れたがゆえにこのような事故が起こってしまったのであれば、これは完全に彼の責任であると私は思う。しかし、多くの人がそれでも思うことは、「では、何故彼はクレーンに乗ることを選択したのか?」ということであろう。この事故に関連し、id:goldhead氏は、俺はたまたま子供を6人轢き殺していないだけ - 関内関外日記において、SASを患っているという観点から記事を書いていえる。その中で、次のような文章が目にとまった。

だから俺は、クレーン車で6人の子供を死なせてしまったやつのことを考えずにはいられない。彼が症状をおさえる薬を飲んでいなかった理由も、あるいは過去に事故を起こしていたり、その病気を隠してまたその職についた理由もわからない。わからないが、想像せずにはおれない。他人事ではないのだ。果たして俺がたまたま運転する仕事に就いていて、睡眠時無呼吸症候群に気づいたらどうしただろう。その持病があることを明かせば、仕事を失うかもしれないとき、どうするだろう。あるいは、新しい仕事に就けないのかもしれないということを。俺がそこで正しい選択をするかもしれないし、誤るかもしれない。正しい選択をした結果、ひどい不利益に陥ることもあるかもしれないし、誤った選択をしながら大きな失敗をしないですむかもしれない。それはわからない。

誰かが語らなくてはならないと思った。彼がクレーンに乗るという選択を、一度未遂を起こしながらも選ばなくてはならなかった理由について。これからここに書くことはあくまでも推測と私の経験や伝聞によるものである。しかし、「こういう事情もあるのだ」ということを、頭の片隅に入れておいていただきたいと思ったからこそ、この文章を書くことにする。

てんかんという病気は、一般的に精神障害に分類され、精神障害者保健福祉手帳の対象疾患でもある(註:てんかんは脳疾患であり、精神疾患には含まないとする意見も存在し、それは決して少数派ではない。しかし制度上は「精神障害」に分類されるため、このように記載する)。精神疾患には、てんかんの他に鬱病双極性障害統合失調症などが存在するが、てんかん双極性障害統合失調症は薬の服用を持続することによって「寛解」させることは出来るものの完全に治癒することは出来ない。だから、基本的に(医療技術の発達がない限り)これらの病気を患った場合、生涯にわたって薬を飲み続けなくてはならない。また、寛解と言われる状態は、医師や病気によって異なるものの、多くの人は健常者と同じく生活が出来、普通に働いたり、休暇を楽しんだり、子供をもうけたりすることが出来る。

しかし世間はそう思わない。一般的に、これらの病気があるという事実を明らかにして採用に望んだ場合、かなりの高確率で落とされる。精神疾患というのは未だに根強い偏見や差別が残っており(まさにテレビにおいて「てんかん」という言葉がほとんど使用されないことが、それを端的に示している)、病気を明らかにして就職することはほとんど不可能なのである。

じゃあ「障害者枠」を利用すればいいじゃないか、と思うかもしれない。しかし一般的に存在する障害者枠というのは、ほとんどの場合身体障害者用であって、精神障害者の受け入れを表明している企業は非常に少ない。世の中にはいくつか「障害者用求人サイト」というのが存在するが、求人票をめくるとその多くは「身体」のみであり、「精神」にまで広げられている場合は少ない。これには明確な理由が存在し、身体障害というのは多くの場合彼が死ぬまで永遠に「傷害」がまとわりつくのに対し、精神障害者の場合はそうではないことがあるのだ。いや、そういうと語弊がある。正確に言えば、身体障害者手帳には更新の義務が存在しないが、精神障害者手帳は更新義務があり、さらに「就労している場合は障害認定のハードルが上がる(所見において「日常的に生活が出来る」というのは、障害認定に値しない)」という事実が存在するがために、精神障害者を雇うメリットというのは企業にとってほぼ皆無に等しく、受け入れをする理由が存在しないのである。よって、障害者雇用精神障害者とは無縁の存在である。

では、「療養所」のようなものはどうか。やはりこれもノーだ。療養所というのは、治療の難しい精神障害者知的障害者しか受け入れないところが大半であり、間違っても「薬を飲んでいる限り健常者と同じ日常を送ることが出来る」レベルの人間がそのようなところでの就労を認められるケースというのは、残念ながらほとんど無い(ただ、これについては少しはあるらしい)。

それなら最後の砦、「障害年金」や「生活保護」を取得すればいい、となるが、障害年金の受給額は年間100万円程度であり、この程度では生活なんてとてもできやしない。生活保護に関しては、やはり「薬を〜」という事実がある以上、ケースワーカーから就労を促されることになってしまう。様々な制度が存在しているのだが、「薬を〜」レベルの人間というのは、全てにおいてつまはじきにされているのだ。だから、結局のところ、彼らは病気を持っている事実を隠して就労するしかないのである。

そしてそのような人間は、多くの場合「精神障害者手帳」の認定基準を満たしていたとしても、社会生活において不利益になる事があるため、手帳の取得を行わないことが多い。最近では、自立支援医療の適用も断る場合があるという(保険の書類を会社に見られたとき、これらの制度を利用していると一発で「アヤシイ病気を持っている」とバレてしまうため)。まさに、自分の中に存在している爆弾がいつ炸裂するか、あるいはその存在がばれてしまうのか、そういうことにビクビクしながら日常を送っていくしかないのである。社会によって、彼らは「普通に」生活することを潜在的に強要されている。そうでなければ、明日の食事にも困るような生活が待っているのだ。それなら、そうなってしまうならクレーンに乗り続ける。たとえ僕が加害者と同じ境遇にいたとしても、やはりクレーンに乗ることを選択しただろう。「明かして事務作業やらしてもらえればいいのに」というのは簡単だ。だが、事情は違う。明かしてしまったら、そもそも雇ってもらえないのだ。

だからこそ、私は彼に対して迂闊に何かを言うことは出来ない。単純に何かを言うことは、構造上不可能なのだ。もちろん、事故について責任を負うべきなのは彼である。しかし全てを自己責任に回収しても良いのか、という疑問は残る。彼のような存在を作り出してしまったのは、まさに我々の生活している、この社会構造それ自体のだから。

彼はそのことを忘れたかったのかもしれない。だがこれだけは言える。誰もが簡単だと思っている「薬を飲む」ということ、それはまさしくそのような「現実」を強く認識する瞬間を自分から作り出すことであり、生きるために苦痛の上に苦痛を塗り重ねる、その作業を「自発的に」行わなくてはならない苦しみを伴っているのであるから*1

そしてまた、病気なのだから夢をあきらめろというのは(クレーン乗車は彼の夢だった)、まさしく我々は、片方で「普通」の生活を強要しながら、もう片方では「お前は普通ではない」と言っていることを示している。どこまでを「能力的な問題」とし、どこまでを「病気の問題」とするのか。あるいは、我々は、意図的にこの両者を混同することで、彼を「社会」の内部に規定しているように見せかけながらも、それでいてそこから実質的に排除しているような、空白の場所を作り出してはいなかっただろうか。このような実情を、彼はどう心の内に処理すれば良かったのか。私には分からない。

お詫び

タイトルと内容がずれているのは全くその通りです。内容を正確に現すならば、「クレーンに乗らなくてはならなかったのか」ではなく、「病気の事実を隠して仕事をしなくてはならなかったのか」です。ただ、彼の意志をどこまで尊重すべきなのか、そして病気によってそれはどこまで制限されて良いのか、というのは、私に判断できる問題ではないと言うことも明記しておきます。

*1:前文と矛盾しておりますが、飲まなくてはいけない事実は強く認識していながらも「薬を飲むことをいやがる」人間というのは多く、そのためにこのような記述をしております。あくまでも「そういう人もいる」という話であり、本人がどうであったかは分かりません

「誰かが犠牲にならなければならない」ものは、システムとして欠陥がある

原発に関して、「誰か(具体的には復旧に当たっている東電社員や自衛隊員)が命や健康を犠牲になれば、原発自体は全く危険なものではない」という言説が散見できる。即ち「危機的な状況に陥っても、復旧作業を行えば何も地域全体が危険にさらされることはない、もちろんその復旧作業には危険が伴うが」と。

しかし、そのような、「緊急時には誰かが危険を伴う作業をしなくてはならない、あるいは命を犠牲にする覚悟を持たなくてはならない」ようなシステムは、そもそもシステムとして自己犠牲を内在化しており、その点においてこのシステムは全体として欠陥である。ゆえに、現時点において(あくまでも現時点において)原発というものが、いざというときにそのような犠牲を必要とするのであれば、そのようなものは消えてしまえばいい。

そして犠牲者は英雄となり、英雄となるという事実があることで犠牲は社会において再び要請される。映画「ハルマゲドン」で描かれた光景は、決して美しいものでも、尊いものでも、その犠牲者の精神を崇めるべきものでもない。つらく、悲しく、それでいてその事実を隠蔽し、さらに崇高な対象にまで持ち上げてしまう、現代の作り出した悲惨な装置(システム)である。そのような存在を、私は決して肯定しない。

このような理論で行けば、確かにどのようなシステムも危険をはらんでいるということになってしまう。しかし物事には閾値というものがある。原子力発電所というのは、まさしく緊急時のその閾値がべらぼうに低い、つまり他の発電方法と比べた場合、緊急時には即ち「誰かが犠牲になる状況」が発生することを端的に示してしまう。かといって、一度始めてしまった原子力発電をここで一気にストップすることは、ほとんど不可能に近いであろう。だからこそ、今まさにここから、原子力に関する「冷静な」議論をスタートさせてほしいと、私は考える。相手を「左翼」「イデオローグ」とレッテルをつけて捨てるような真似はせず、あるいは原子力の代替可能性を厳密に見つめ、国民を巻き込んだ議論が行われることを期待したい。

なお、「対案がない」という主張に対しては、次のエントリが参考となる。
「対案についての思考」を禁止します - (元)登校拒否系
「対案を出せ」論法について - モジモジ君のブログ。みたいな。
「じゃあどうすればいいか」について - 猿虎日記(さるとらにっき)

ドワンゴの悲哀的なものが好きなのであって。

ドワンゴは、東証一部に上場しているのにも関わらず、そう、我々が「東証一部」と聞いたときに持つ「ザ・サラリーマン」というイメージに反して、どこか抜けていて、それでいて目指している方向性には非常に卓越した視線が含まれている企業であった。彼らがベンチャー企業からスタートしたのは今や有名な事実であるが、外から見るに現在においてもその精神を失っているわけではなく、また、良い意味での「頭の悪さ」も兼ね備えている。多くのインターネットユーザーは、「某音頭」がテレビCMで放映されたときに「大丈夫なのかこいつら」という感覚を覚えたはずだし、最近では「ニコニコ動画」の運営に当時2ちゃんねるの管理人であったひろゆきを大々的に起用したことが記憶に新しい。このような経緯もあって、ドワンゴは企業イメージとしては非常に稀有な、「ドワンゴならやりかねない」「ドワンゴなら何をやっても許される」というイメージを素直に獲得した。もちろん、NTTやJRのような大企業がドワンゴのようなことをやったとしても、それは「変化球」として受け入れられるだろう。しかしドワンゴの場合、そのような空気が「真正面」から肯定されている。そして多くの人が、ドワンゴの次の手を今か今かと待ち続けているだろう。そのような空気もあって、ドワンゴ社員がインターネット上で起こす個人的な「騒動」も、通常なら「炎上」になってもおかしくないところで、それとは逆にドワンゴの企業イメージをむしろ高める効果を持つ、という非常に珍しい状況が作られていたのである。

しかし今回、地震に付け込んで「サーバールームでけがをしたので助けてほしい」という書き込みがTwitterでなされた(「ドワンゴ社員がドワンゴサーバールームで何たらかんたらとか嘘ついたtweetについて現ドワンゴ社員と元ドワンゴ社員のやりとり - Togetter」)件については、このような企業イメージと同様のベクトル上に存在していながら、しかしそのイメージを壊してしまう事例として、私は位置づけることが可能であると考えている。

本件は地震の発生直後に行われており、記載されている住所と「会社で」というポストに不整合があったとしても、それを信じるに足る逼迫した状況があった。また、少し想像すれば、警察や消防が呼ばれる可能性があることは容易に予測できる(いくら病気とはいえ、ネタポストに対し謝罪を行うことができる人間が、そのような予想を行えないと考えることは困難だ)。多くの人の善意やサポートのリソースを悪意によって消費することは、絶対的に避けなくてはならないことであることは、インターネットを主な活動とする企業の社員であれば十分に理解可能であるはずであるが、彼は倫理意識をすべて無視しこのような行動に出た。また、彼の「病気」「失踪」については事実であったのだから、彼とその周辺は常にネタをはいているのではなく、緊迫した事態においては真実を伝えることもあった。だからこそ、「信じたお前が悪い」というのは、二重の意味で肯定するのが困難な言説なのである。

しかし、私はドワンゴには自浄作用があると信じている。先日の大会議における夏野氏の発言に対してはひろゆきが苦言を呈したし、今回の件についてもドワンゴの偉い人たちが同じく批判を行っている。「締めるところは締めるが、できるところでは徹底的にバカを演じる、それでいて路線はブレない」というドワンゴの今の姿勢を、私はこれからも大切にしていってほしいと思うし、だからこそ今回の件については十分に批判を行いたい。それは別に、「お前面白くねーよ、今回の件を茶化すならbogusnews虚構新聞のような方向性で行くのが筋ってもんだ」というような方向性でもいいと私は思っている。それがドワンゴの作り出した、企業風土という大きな大きな無形財産なのであるから。