「テレビが面白くない」なんてことはない

モヤモヤしているものを書き出してみる。でも基本的にモヤモヤしているので、書き出してもやっぱりモヤモヤしている。

最近やたらと「俺はもうテレビを見なくなった」「テレビなんてつまらん。ニコニコで十分」という主張が見受けられる。けれども個人的には、それは一般的にはいえないと思う。現時点では、作り手自身やその周りの満足を重視したCGMコンテンツが大衆を意識しているテレビ番組に敵っているとは思えない状況にある。例えばその辺で放送されているUustreamの番組やニコニコ動画にあるオリジナルコンテンツをテレビで放送したらどうなるか、考えてみて欲しい。多分、「面白い」と思うのはごく限られた層だけで、視聴者の大半は「つまらない」と感じると思う。何が言いたいかというと、「どのような番組を作れば皆を満足させられるか」という視点があまり重視されていないところに現状のCGMコンテンツの限界があり、動画コンテンツがある種のコミュニティを創り、そのコミュニティ内でのみコンテンツが消費されるというニコニコ動画的なモデルでは、コンテンツはそのコミュニティという文脈があって始めて面白さをもち、それがCGMの面白さの源泉であり、また限界である。
...そこにテレビ番組の問題点がある。どういうことか?つまり、テレビ番組は大衆受け、つまり何もないところから面白いことを生み出すことを狙った結果、誰にとっても「まあ確かに面白いかも」程度の面白さしか持たない物になってしまったのだ。二次創作やパロディの持つ面白さや、コミュニティの内部でしか理解されない面白さを、テレビは獲得することが出来ていないのである。その意味でテレビ番組は「大衆のもの」であり、「誰の物でもない」。一方、CGMコンテンツは「そのコンテンツが創り出したコミュニティ*1のもの」であり、それが面白さを創り出す。

昔のテレビ番組は面白かったけれど、最近のテレビ番組が非常につまらなく感じるのは、まず第一に、インターネットの普及で視聴者の周りに「面白いもの」がたくさん出来てしまって、テレビ番組の面白さはその中で相対化されてしまったからである。つまり、インターネットの台頭により、大衆向けテレビ番組がもたらす「まあ面白いかも」に敵う「内輪受けコンテンツ」が誰にとっても簡単に見つけられる状態となってしまったからである。客観的な目線で見れば、CGMコンテンツはテレビ番組よりもつまらない。けれども「内輪」の中に入っている人間*2から見れば、Ustreamのほうがエンタの神様より面白い。そして無数に存在するCGMコンテンツの中から、自分の正確や性質、興味に合ったものを探すことが容易に出来てしまうのだから、ひとつひとつのCGMコンテンツがいかに非力でつまらない物であっても、「CGMコンテンツの集合体」が持つ「一人一人にパーソナライズされた面白さ」に「大衆に対するそれなりの面白さ」を標榜するテレビ番組は敵わなくなってしまったのである。CGMは単体で力を持つ物ではない。CGMコンテンツが大量に有り、その中で自分の肌に合うものを選択し、さらに制作側と視聴者側という区別が存在しないところに、その怖さがあるのだ。

それと、僕は最近のテレビ番組は企画力がずいぶんと落ちてしまったと思う。「ニコニコ動画の台頭でテレビがつまらなくなった」という相対論ではなくて、絶対的にテレビ番組はつまらなくなっていると思う。これは多くの人が感じていることではないか。僕は、この原因はテレビ番組が「マス」を狙っているためにコンテンツとして硬直化し、何も新しいものを生み出せない状態にまでなってしまったからではないかと思う。ネットによってテレビが相対化されたとかそういう話を外しても、1990年代に比べ、2000年代のテレビ番組は企画として一辺倒で、共通の話題や話の種にするだけの面白さを持っていないのである。

ここでひとつ面倒なのが、「テレビ番組」と「場所としてのテレビ」は全く違うことである。今言ったように前者は取り組み次第でまだまだ生き残る方法はあるし、対象を「一般大衆」から少し狭めるだけで、コンテンツはまだまだ面白くなる。現状のCGMの限界は「所詮CGMはある種の内輪意識、作り手と受け手が同じコミュニティ内にいることに支えられている」という点にあり、逆に言えば「何にも支えられないそれ自体の面白さ」をCGMが追求し始めた時にテレビ番組は終わってしまうのだから、その前にテレビ番組は「対象」をもっと限定してもいい。制作側にそれを行うことが出来るかと言えば、僕は「出来る」と断言することが出来る。1990年代の深夜番組の面白さは異常だった。それはその番組が「一般大衆」を相手にせずもっと狭いところを相手にしていたのと、そういう限定化を行ったがために作り手と受け手の距離が一般のテレビ番組に比べ異様に近かったからだ。もちろん「それなりに自由に作れる」というところにも面白さの源泉はあっただろうけど、いずれにせよここで言いたいのは「テレビ番組がテレビ番組であるゆえに面白さの力を失ったということは決してない」ということである。テレビ番組が「テレビ」を捨て、「コンテンツから始まるコミュニティ化」の可能な場所、例えばニコニコ動画Ustreamに場所を変えるだけで、テレビ番組だってCGMの面白さの源泉である「コミュニティ」を得ることが出来るのだ。そしてテレビ番組が「大衆」を捨て、よりコミュニティ化されやすいコンテンツを製作すれば、コミュニティはより強固なものとなる。そして気がつくとそのコミュニティは人気となり、「あそこに人が集まってるぞ」という感じで、逆に人がどんどんとやってくるようになる。つまり、狭い人々を狙っていたのに、結果的に大衆がそこにやってくるという事態が起こりうるのである。

結局のところ、今のテレビ番組は「それ自体の面白さ」もなければ、「コミュニティ化されることで新しい面白さが生まれる」こともない。テレビ番組が復興するためには、「それ自体の面白さ」を復興させるか、もしくは「コミュニティ化」、つまり「場所としてのテレビを捨てる」ことを選択しなくてはならない。前者の道は茨の道だ。なにせ「絶対的な面白さ」「万人にとっての面白いコンテンツ」を追求しなくてはならないからである。「芸人が内輪ネタを披露する会」、つまり視聴者が芸人というコミュニティを外から眺めるような番組作りを続けては、受け手としては圧倒的疎外感を感じるだけで、何のおもしろみもない。逆にそのコミュニティを拡張し、視聴者をも受け入れる体制を創るならば、それはそれで今までとは別種の面白さを持つことになるが、しかしそれは「テレビという場所」の性質に即した物ではない。

ここで多くの人が気がつくだろう。価値を失ったのはテレビ番組ではなく、テレビという場所である。ニコニコ動画YouTubeに違法アップロードされたテレビ番組が注目を集めるということは、まさにこれを証明している。ともすれば、「テレビ番組」は今すぐにでもテレビを捨て、新しい場所へと活動の場所を移すことが必要になってくるのではないか。もはや「テレビ」の時代は終わりつつあるが、しかしそれは「テレビ番組」の終わりを意味するわけではない。長年にわたるノウハウと企画力が残っているうちに、テレビ番組制作局は場所としてのテレビを見限り、何か別の方法を模索するべきであると思う。CGMの時代、場所としてのテレビの重要性は確かに下がっているが、CGMが森のように広がっている今だからこそ、「受け手」を強く意識して製作することが出来るテレビ番組は森の中の大木のように目立つ存在である。テレビ番組よ、はやくインターネットの一コンテンツとして生きる道を選ぶのだ。必要なのは「テレビというハコ、そして大衆を捨てる勇気」である。「でもそれだと、大衆の間で番組が話題にならない」と思うかもしれないが、それは違う。もし「限られた大衆」の中で本当に面白さを発揮する番組を製作できたなら、噂を聞きつけた大衆の側からその「限られた大衆」の仲間入りをしようとアプローチをかけてくるはずだ。番組制作側は、CGMコンテンツが「受け手」を意識する前に行動しなければ、場所としてのテレビと共に死に絶えることになるだろう。今、人は「『コンテンツの産むコミュニティに自分が含まれること』に対する心地よさ」を無意識のうちに実感しており、そういう心地よさを創り出さない旧来のメディアを切り捨てようとしている。しかしそれは旧来のメディアで示されていたコンテンツをも否定することではない。逆に、旧来のメディアで示されていたコンテンツが「コミュニティ」を意識し、コンテンツ自体が「コミュニティ化」を認める方向に動けば、彼らは既存のCGMコンテンツよりも人を魅了するコンテンツとなりうる。

「コンテンツがある種のコミュニティを作り、そのコミュニティに属している心地よさを持ちながら、コンテンツをもとに語り合うこと」というのが、CGMコンテンツの面白さの源泉である。別にコンテンツの内容それ自体が素晴らしい面白さを持っているわけではない。だからこそ、コンテンツの内容それ自体が面白さを持つ作品を製作すれば、それは既存のCGMコンテンツよりももっと面白いものになる。最近のCGMコンテンツは、「動画祭」などに見られるように、この「それ自体の面白さ」を追求しつつある。もしこの試みが成功してしまえば、テレビ番組は死ぬ。そうならないうちに、行動しないと...

うーん、結局よく分からなくなってしまった。モヤモヤモヤモヤ。結局うまくかけなかった。どんどん突っ込んでくれると助かる。ツッコミを元に再構成する。

*1:http://d.hatena.ne.jp/thir/20080309/1205065049

*2:動画が肌に合えば、自然とその動画が創り出すある種のコミュニティにも属すことが出来るものだ