馬鹿なのはゆとり世代じゃなくて

こんなことを言わなくてはならないのは本当にばかげていると思うのだけれど、どうも未だに「ゆとり世代はこれだから」で昭和61年生まれ以降を無批判に叩こうとする人がいるようなので、ここで一度書いておくことにする。

馬鹿な若者というのは、今更ここで言うまでもなくいつの時代にも一定数いたものである。説明書を読もうとしない人間も、不満ばかり垂れ流す人間も、あるいは飲酒喫煙を自慢したり、犯罪自慢をする人間だって、さらには中二病的な諸事象も、別に今の時代になって突然現れたわけじゃあない。昔からそういう人間はいるし、それは人間古来の欲求から来る衝動なのだから、存在しないはずがないのである。

かつて、若者のさしたる行動は、社会から隔絶され閉じられた学生特有のコミュニティ空間のみで共有されるものであり、「学生」間での出来事は大人達の構成する「社会」によって具体的に認知されるものではなかった。学生による行為は、その当事者間と学生コミュニティ内でのみ記憶されるだけで、その情報が「社会」に対し拡散することも共有されることもなかったのである。こんなこと、インターネット以前では新聞の三面記事に載るか載らないかという程度であって、存在していても誰も観測しない情報だった。学生が砂丘に文字を書いてみたり、意味不明な発言をしたりしても、社会の誰もそんなことを観測、しちゃあいなかったのである。

さて、そこでインターネットの登場である。インターネット上では、それまでほとんどの人間が目にすることのなかった三面記事ですら、誰かの手によって掘り出され2ちゃんねる等の掲示板に書かれることで、多数の目に触れることになる。あるいは、mixiウェブ日記の普及によって、それまで当事者以外には誰も知らなかったような情報が、一次的に我々の現前に広がることになったことも大きい。Googleをはじめとする検索技術の発展により、全ての情報はひとつのレイヤー上に配置され、探そうとすれば誰もが同じような情報を探すことが出来るようになったため、「若者の愚行」は次々と掘り出されるに至ったのだ。
そして、それまでならそれまで「ああ、また馬鹿な学生が」で済んだことが「祭り」の作用により影響力を拡大させ……今に至る。

ここで「若者の愚行」が我々の現前に現れる過程を見れば分かるとおり、我々はただ端に、以前から存在していた「若者の愚行」というものを、インターネットの流通力により初めて観測したに過ぎない。そこには観測される以前から「愚行」は存在していたのであり、我々は愚行の初観測を、あたかもそこに存在していなかったかのように錯覚しているだけである。そしてインターネットの持つ凄まじいほどの情報伝達速度、そして同一の話題で日本中の人間が集まるという「集積力」の力を借りて(「祭り」の発生を借りて)情報は瞬く間に多くの人間に共有されることになり、ここで「俺らの世代はこんなんじゃなかった。こいつら馬鹿だ」という心理「ゆとり世代=馬鹿」という認識を生むに至る。インターネットが偶然にこの世代と重なったに過ぎないのに、それが全てであると錯覚する。あるいは、観測していないことは存在していないことと同義であると錯覚する。果たして、馬鹿なのはゆとり世代か、それとも「ゆとり世代」を猛進する個人か。いったい何がゆとり世代と君を分節するというのだ。中にはもちろん「いやあ、僕はネタとして『ゆとり世代』って言葉を使ってるんですよ。何マジになってるんですか」という奴もいるだろうが、ネタとしてでも何でも「ゆとり世代だから」という言説がどれほど愚かなことなのか、少しは考えろ。まあいいや。そうやっていつまでも自分を特別扱いしていればいい。

それにしても、昔は「夏厨」なんていって「その年頃の若い奴は、等しく馬鹿を抱えている」という印象が強かったのに(「中二病」という言葉だって元はそうだろう)、いつ頃から「ゆとり世代」叩きという愚行が始まったのだろうか。その辺はもう少し考えてみる余地がありそう。