本当に「ゆとり教育に伴う思考力の低下」が原因なのだろうか?

 工業化学科の1学年は235人。従来、私の授業では1割程度が単位を落としていました。ところが、現在の3年生から急に4割ほどの学生が単位を落とすようになりました。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080825/168719/?P=1

さて、引用元ではこれが「ゆとり教育思考力が低下したのせい」だと言う話になっているのですが、では、実際に「ゆとり教育」という姿勢それ自体が間違っていると結論づけるのは、些か早計すぎる気がします。まさかこれだけの懸念している教授が初歩的な部分で誤認をするとは思えないため、以下のことが実際に当たっているかは全く分からないのですが(それこそ京都大学に在学しており、なおかつゆとり教育とそれ以前の端境期を生きているid:iammg氏に検証していただきたいのですが)、実際に私の身に起こった事実も思い出しながら、少し書いてみます。

ゆとり教育」は、そもそも授業内容の刷新であった

ゆとり教育」とそれ以前では、小中高大で扱うべきとされる内容が大幅に変化しております。いわゆる「先送り」と呼ばれるのがこれです。とくに物理学や数学、化学といった理科系の学問では、これが顕著に表れています。
例えば数学では、従来高校課程で扱うこととされていた数列の一部や複素数平面、平面幾何、微積分が削除あるいは大幅に簡略化されています。また、物理や化学に関しては、中学課程から高校課程への先送りがあまりに多く、高校課程で行うべき内容があまりに過密化した結果、多くの分野で全般的に内容が大学へ先送りされています。学習指導要領の具体的な変化に関しては、「http://www.nicer.go.jp/guideline/old/」をご覧下さい。

要約してしまえば、ゆとり教育以前と以後では、高校教育の内容にかなりの差異があり、また大学側もそれに呼応する形で「高校から先送りされたために、新たに大学で教えなくてはならなくなった内容」というものを数多く有している、ということです。

大学側は、「新たに教えるべき内容」に関して無頓着であった

一方、大学側には、高校から先送りされる形で大学で教えなくてはならなくなった分野について、かなり無頓着です。彼らはこの問題を「2006年問題」と呼び、緊急課題として取り組んでおりましたが、末端の教授達は「新た何々を教えなくてはならないのか」「それまでの学生とどの程度の知識差があるのか」ということについて、無知であるか、あるいは無関心である場合が非常に多い。例えば私の場合、私は「ゆとり世代が始まって2年目」に属する者ですが、やはり教授の中には「先送りされた内容」を前提として授業を進めてしまう方や、あるいはその部分を簡単なプリントを配布するだけで終えてしまう方が多く、かつて高校で教えていた程度に濃密な教育というのは、ほとんどされていなかったように記憶しております。

(補)京都大学工学部の偏差値はもちろんのこと、合格者最低点も過去十年間ほとんど推移していない

京都大学工学部の偏差値は、ここ10年間ほぼ同値を保っておりますので、「同じ学年の中での京大工学部入学者の位置」が変わっているとは思えません。また、ここで京都大学工学部の合格者最低点は、「京都大学合格最低点一覧(工学部前期)」で閲覧することが出来ますが、ゆとり教育以後劇的に下がった、ということはなく、むしろそれ以前のほうが酷い有様ですし、そもそもこのようなデータは年数が浅すぎてまだ考えられない、というのが正確でしょう(ちなみに、2007年は大幅に下がっていますが、これは2006年、学習指導要領の改正一年目の試験は簡単せざるを得ないため、その反動で翌年は問題が難化するという、学習指導要領の変化が引き起こす「受験界の常識」であり、ゆとり教育が原因であるとは考えられません)。大学側の課す水準が学習指導要領の範囲内で変化していないとすれば、入ってくる学生の質がゆとり教育以後劇的に変わった、ということは、ここでもすぐに結論づけることのできるものではありません。さて、ここで考えるべきなのは「学年単位での思考力の推移」ですが、前述の通り、「ゆとり以前」と「ゆとり以後」では、そもそも知識量に差がありますので、差を考えることは非常に難しいことです。同じテストを実施したところで、問題の中で「ゆとり教育以前」の知識を前提としているものがあれば、そこで圧倒的な差がついてしまいます。ということで、ここでも「ゆとり教育以後で学力が劇的に低下している」ということは言い切れません(とはいえ、言い切れていないだけではあるのですが)。

本当に「考える力」が無くなったのか

先に挙げた記事では、

 学生の課題に対する応用がほとんど利かなくなっているのです。考える能力が落ちていることを懸念します。それが、今では、学校の先生が手取り足取り教える。例題をいっぱいこなして、暗記していく。自分なりの勉強の仕方が確立できない。

と、ゆとり教育によって「考える能力が落ちている」ことが、学生が「バカになった」ことの原因であるかのように語られています。しかし、私はむしろ、大学側が「教える内容」の変化に対応し切れていないことが原因なのではないか、と強く思わざるを得ないのです。

高校と大学の旧教養部(京都大学でいえば、総合人間学部が旧教養部と同じ役割を担っていると聞いております)の連携、そして旧教養部と専門課程の連携がうまく行われていないというのは、もはや常識です。しかしそれでも、これまでの学習指導要領の変化では、学習内容にここまで大きな変化が起こることはなかったため、感覚的に各部は「自分たちが何処まで行えばいいのか」ということを認識しておりました。しかし、ゆとり教育以後は、各部が教えるべき知識が大幅に変化いたしました。本来ならば、旧教養部、大学専門部は連携して高校から先送りされた問題を何処で取り扱うのか明確にしなくてはなりません。けれども、教養部解体後の一連の「行き違い」や、また変化が細部にわたっているため末端の人間が「何を教えればいいのか」わからないこと、さらに、末端の教授には新たに教えるべき内容を教えることについてのノウハウが全く存在していないことが重なり、対策がほとんど取れていない、ということは十分に考えられるのです。

京都大学工学部は、高校から先送りされた内容を既習事項として扱ってしまったのではないか、と私は思います。むろん、これは「思考力の低下」を招きます。が、それは本質的な思考力の低下ではなく、「前提知識が不足するために思考できない」という、「考える」以前の思考材料の問題なのです。「ゆとり教育」が招いた悲劇ではなく、大学側が「ゆとり教育」に併せて自らを変革すべき位置に置けなかったことが招いた悲劇です。端的に言えば、大学が教えるべきことが制度的に変わっているのに、末端の教授は何もかわっていないのです。彼らの状態が変われば、「ゆとり教育」であったとしても、大学の努力により十分以前の状態を取り戻せるはずです。思考のための材料を十分に与えていない状態で、「さあ!料理してみなさい!」といっても、出来ないのは当然です。「ゆとり教育で思考力が低下したのか」という問題を考える以前の問題です。

「受験戦争の激化に伴い、上位層の学力レベルはむしろ変化していないどころか(受験という箱庭の中で物事を処理する能力については)むしろ上がっている」という意見も数多く聞かれる中、このような結論を出すのは些か早計過ぎると思うのですが、どうでしょうか。もっとも、工学部長ともあろう方が、このような根本的な問題について理解していないとは私も思わないのですが、はてなブックマークではそのような意見がほとんど存在していなかったので、末端にいる学生から一言、ということで、このエントリを。

(注)ただしこれはあくまでも母数を京大生という「学年の中でも成績優秀な集団」に限った場合であって、母数を学年全体に広げた場合どうなっているのかは全く想定しておりません。

追記

2008年08月27日 digdigdig 大学生の学力低下ゆとり教育によるものかはわからないが、大学に来てまで自ら探究する気がなく手取り足取りを要求するようなスタンスはゆとりだと思う。知識は自ら求めるもの、与えられるべきはガイドトーンのみ。

大学に対する姿勢としては同意です。ただ、今回の場合のように工学に必要な知識が講義で用意されていないというのが望ましい状況であるとは、私は思いません。というのも、必要に応じて自学する場合について必要となる書籍について、現在は「先送りされた分野」をも扱っているものは、既に入手困難となっている旧課程用の高校学参しかなかったりしますので。「知の空洞化」と形容できるかもしれません。もっとも、ゆとり教育な大学生が生まれて3年目ですから、まだまだ混乱しているだけなような気がしますけれども。いずれ書籍が出てきて、「やる人はやる、やらない奴はやらない」という、今まで通りに戻る気がします。「大学で扱う内容が増えすぎ」という、また別の話は(そして結果的に同じ結論を導く話は)出てくると思いますが……。