Twitterはポータルを再強化するのか

言ってしまえば、Twitterとは、さまざまなインターネットサービス・インフラの統合体であり、我々が考えているような「単一のサービス」とはほど遠いものである。さて、わたしは「はじめに」で、Twitterはブログとチャットの中間に位置する存在である、と書いた。このような解説はどこにでも見つけることが出来るものであり、それほど真新しく面白い議論ではない。そこで本論では、Twitterを構成する様々な機能が、いかにしてウェブ時代の申し子たちの「変化球」として作られ、Twitterというサービスに接合されているのかを解明する。Twitterの機能全体を因数分解し、それぞれの小機能が組み合わさることでTwitterという「複合型」のサービスが誕生したことを理解していただければ幸いである。

タイムライン

Twitterのもっとも重要な機能が、「タイムライン」だろう。これは、自分がフォローしている人のツイートを一覧で表示することのできる機能である。タイムラインについては、簡単に言うとこうなるだろう:「Twitterのタイムラインとは、恒久的にログが残るチャットのようなものである――」。ここでは、私たちが「チャット」というサービスに魅せられる理由が、そのままTwitterのタイムラインに魅せられる理由となる。我々がチャットに魅せられるのは、古くから言われている通り、それが自閉的なコミュニケーションを駆動するため、そして日常とは異なる処理体系によって作られるコミュニケーションであるため、である。我々がチャットをする際、そこにあるのは文字列のみであり、相手の顔も姿も見えない。そのような状況は、我々が日常で行うのとは違ったコミュニケーションのコードを我々に想起させる。また、チャットで使われる様々な記号(顔文字や「w」など)は、自分とチャットのメンバーだけにしか通用しない、自閉的な空間を作り出す。*1
Twitterのタイムラインも、これと同じ構造を持つ。すなわち、自分の好きな相手(フォローしている相手)と「タイムライン上のチャット」に耽ることが出来るのが、タイムラインの持つ大きな魅力である(第三章で再び検討する)。Twitterは「チャット」の持つ毒を上手く取り入れ、そして我々に再提供しているのである。

ダイレクトメッセージ
Twitterは何のために「ダイレクトメッセージ」を自らに接合したのか。これは、おそらく「電子メール」の代替的な存在として作り上げたのだろうと考えられる。電子メールは、もはや我々にはなくてはならない存在となっているが、「リアル」と「インターネット」というありがちな二つの区分を想定した場合、電子メールは通常前者に入る。というのも、リアルなコミュニケーションの延長線上として電子メールは利用されるためである(電子メールはチャットと異なりそれ自体が自己目的化することは少なく、リアルで行われる様々なコミュニケーションを代補する存在としてつかわれることが多い)。一方、インターネット上、とくにTwitter上のみでの付き合いの場合、電子メールのアドレスを教えるということは一定の個人情報流出リスクになりうるし、Twitterにおいては、そもそも電子メールアドレスを教えるということ自体がパブリックなツイートという形でしかとれない、というちぐはぐな状態が生まれてしまう。このような事態を想定して作られたのが「ダイレクトメッセージ」機能だと考えられる。「ダイレクトメッセージ」により、二者間だけのコミュニケーションが可能になったことで、我々はTwitterの世界にさらに縛られることになる。二者間のみの連絡は、ほかの手段ではなかなか取りにくいものであるから。このようにして、Twitterは電子メールサービスを自らに接合したのだ。

ハッシュタグリツイート
ハッシュタグは、端的に言ってしまえば、掲示板機能の接合である。ハッシュタグを貼られたポストは、そのハッシュタグを参照することで掲示板的にみることが出来る。ここで想定されている掲示板は、2ちゃんねるにみられる「スレッドフロート型」の掲示板である(海外ではあまり一般的ではないスタイルの掲示板だが)。Twitterは疑似的な掲示板機能を導入することによって、それまでの「アカウントごと」の発言リストを、「発言内容ごと」に再統合することに成功した。この再統合は、「流行のトピック」の実装をも可能にしている。それまで議論等には向かないと目されていたTwitterだが、「ハッシュタグ」の実装により活発な議論も可能となっており、また国内では「togatter」などのサービスと連動させることで、議論内容を外部に提供することが可能となっている。
また、リツイートソーシャルブックマーク機能の外延である。ソーシャルブックマークとは、「はてなブックマーク」や「del.cio.us」に代表されるような、ある種の「人気記事ソーティング」である。もっとも、Twitterリツイートには「タグ」といった概念が存在しないため、メタデータによってインターネット上のコンテンツを解析する、といった要素は存在しない。ただし、「誰がリツイートしているのか」によって情報にウェイトが与えられ、それが信用情報に変わっていく点を忘れてはいけないだろう。

「総ソーシャル化」

このように、Twitterとは、ひとつのウェブサービスでありながら、あたかも複数のウェブサービスを統合したかのような振る舞いを見せる。そこにあるキーワードは、「複合型ポータルサイト化」と「インフラ化」、そして「総ソーシャル化」である。
ポータルサイトとは、「Yahoo!」や「iGoogleGoogle検索ではなく)」のように、様々なコンテンツ・機能を有する巨大な「インターネットの入り口」サイトのことを指す。たとえば、Yahoo!JAPANのトップページは、検索機能のほか、翻訳機能やメール機能、オークションや交通情報などを兼ね備えている。このポータルサイトは、2000年代に入って急速に衰えていった(その背景には、当時のGoogleのような「シンプル路線」の検索サイトが台頭していったことが挙げられる)が、今、Twitterは再び「ポータル化」、そしてその先にある「総ソーシャル化」を志向していると言えるだろう。
確かに、そこには「検索機能」はないし、時計や翻訳、オークション、交通情報といった便利な機能も存在しない。しかし、コミュニケーションの入り口としては、「チャット」「電子メール」「掲示板」「ソーシャルブックマーク」といった機能を兼ね備えており、ログインすればすぐにさまざまなコミュニケーションを楽しむことが出来るように設計されている。つまり、アーキテクチャとしてのTwitterポータルサイトを志向しているのである。「単一に見えながら、実はポータルサイトである」という構造は、Googleと非常に似通っている。また、2006年ごろに爆発的に流行した「Plagger」と呼ばれる情報一元化ツールとの類似性も認められる。人々は、ポータルから出ていった後に、再びポータルに帰ってきたのである。ただし、後者は分化したポータルとして。Twitterは、コミュニケーションのためのポータルである(総ポータル化)。これが、単純型から複合型への流れと私が呼ぶものである。
さて、インターネット上にある様々な機能を接合した結果完成した「Twitter」は、その様々な機能がそうであったように、もはやひとつの「インフラ」として機能している。Twitterとは、インターネット上に存在するコミュニケーションインフラであるといっても過言ではない。Twitterがインフラとなれたのは、それを因数分解したときに出てくる様々な機能が、全て「インフラ」としての性質を帯びていたためである。

タイムライン再考

 Twitterの内向的な性格とは、ツイートやDM、リプライの集合体としての「タイムライン」を形成する点である。本章では、このタイムラインについて考察を加えたい。
 タイムラインとは、自分好みの相手のみをフォローすることによって、初めからカスタマイズされた疑似プライベート空間を用意する。Twitterの大きな魅力が、この機能である。すなわち、気に入らない相手はフォローしなければそもそも画面に表示されることがなく、自分の趣味や嗜好、思想に合った人間のみを選んで自分の視界を自分で作ることが出来る。
 一方、我々は、タイムラインにいる人物があたかも自分たちの手の届く範囲にいると勘違いしがちである。たとえば、有名人がTwitterに姿を現し、彼/彼女をフォローした場合を想定してみよう。我々はそのとき、「彼との距離が近くなった」と認識してしまいがちである。この認識の錯覚は、Twitterにおいて様々な軋轢を生む結果となっている。
 相手に失礼なことを言ってしまう、個人情報やプライベートな事柄を書いて誤解される、というのは基本である。しかしここでは、極論として政治家が現れた時のことを考えたい。インターネット上には、次のような言説がある。

小池百合子氏がTwitterに姿を現したとき、「小池百合子との距離が縮まった」と感じた方もいただろう。けれども、彼女がいくらTwitter に投稿したとしても、自分の意見を小池百合子に伝えることは出来ないし、ましてや彼女を通じて自らの声を国政に届けるなど出来やしない。このようなシステムは選挙の際の「握手」や「講演会」で作られていったけれども、インターネットは、まさにそのような「距離の魔術」を積極的にかつ簡単に作り出していくことが出来てしまうツールであって、政治家側もそれを逆手にとって利用しているのではないかと勘ぐってしまう。
おそらく今後も、多くの政治家がTwitterやブログを始めるだろう。けれども、彼らが望んでいるのは国民との対話でもなんでもなく、「距離の魔術」によって作り出される「信頼」の構築である。
http://d.hatena.ne.jp/thir/20091130/p1

このように、「偽の距離感」は様々な状態を作り出す。そしてその「偽の距離感」を作り出す原因は、我々がタイムラインをプライベートな空間であると認識してしまう、その誤差にある。タイムラインにある情報は、プロテクトの人物を除けば、ほぼすべてが公開情報である。しかし、その公開情報がタイムラインとして収集されると、我々はそれがプライベートなものであるという「認識」を抱いてしまう。プライベートだと錯覚された空間にもたらされた情報は、あたかも相手が自分のために用意したツイートであるかのように人々を惑わせる。では、我々はなぜ、タイムラインがプライベートなものであるという認識を抱いてしまうのか。
 それは、Twitterポータルサイト潜在的に意識した作りになっているためだと考えられる。通常、ポータルサイトはプライベート色の強い要素を持ち合わせている(典型的なのはiGoogleである。自分の好きなようにパーツを組み合わせてサイトを構築することが出来るほか、サイト全体の色彩やデザインをコントロールすることもできる。また、Gmailやカレンダーといった個人用の機能にアクセスすることが出来る)。そのポータルを模倣した作りになっているTwitterは、あたかもプライベートな空間であるように映ってしまうのだ。では、「あたかもプライベートな空間」として映ってしまうTwitterはどのような存在なのか。これについては、以下の高木浩光による発言を引用するのが適切だろう。氏は『ised@glocom 倫理研第4回 共同討議第2部』において、このように発言している。

 ところが白田さんが訝しむように、チラシの裏的なものを書いて見せたい、という特殊なコミュニケーション欲求を持っている人々が現実には数多く存在します。彼らがいったいなにを期待して書いているのかを考えてみると、よく私が見かけるのは「こんな個人のどうでもいいことに反応してくれる人がいてくれた」と喜んでいる感情なんですね。つまり、よくわからない通りすがりの人が、自分なんかに興味を持ってくれるということを求めているわけです。となると、この期待は決してアクセス・コントロールの世界では実現できないんですよ。アクセス・コントロールとは、よくわからない通りすがりの人を排除するものですから、この手の欲望を満たすことができない。
 だからネットはパブリックにしてしまうしかない。でもそうすると、「あなたパブリックなところに書いている限り、すべて責任を持ちなさい」と言われてしまう負担に耐えられない。それはもうパブリックである以上、仕方のないことですね。ですから考えないといけないアーキテクチャはこういうものでしょう。あいまいなアクセスの線引きが可能で、ハードな責任の追及からも免除されつつ、通りすがりの他者からの反応という欲望が満たされる、といったものですね。
http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/07100514)

Twittermixiのような閉鎖的な場所ではない。だが、2ちゃんねるのような匿名空間でもない。この微妙な線引き(「あいまいなアクセス」→「繋がりの社会性」)を実現したことは、なるほどTwitterの最大の魅力である。つまり、Twitterは、アーキテクチャとして、自己目的化したコミュニケーションの手段となりうるということも出来るのである。では、なぜ我々は、「あいまいなアクセス」に魅力を感じるのだろうか。

(一部省略)

マクルーハンは主著『メディア論』の冒頭で、「メディアは(こそが)メッセージである(The medium is the message.)」と述べている 。これについて宮澤淳一は解説書『マクルーハンの光景 メディア論が見える』において、「結局、『メディアこそがメッセージである』という『プローブ』は、新しいメディアが登場すると、それが新しい環境を生み出し、私たちを取り込む。その環境とは『メディア』が伝える『内容』以上に力を及ぼすものであり、私たちはそれに対処しなくてはならない。そういう話です。」と語っている。Twitterはまさに我々に新しいコミュニケーション環境を用意し、私たちを完全に取り込んだのである。 また、マクルーハン/カーペンター著『マクルーハン理論』のなかで、マクルーハンは「新しいメディアは線性や因果性とか時間契機性といった、望ましいクライマックスにもっていくものはなにひとつもない。それは前提も結末もなく、内部に周到に選ばれた各要素が並存し、ばらばらにならないで融合しているゴージャン・ノットである」と述べている。Twitterも、まさにそのようなメディアである。タイムライン上のツイートはすべてバラバラで、線的なつながりは一切存在しない。我々はそのようなTwitterの「不確かさ」に魅了されるのだ。それはデマを生みやすい、と批判する声もあるだろう。しかし、この不確かさが、我々を「立ち話」に近いコミュニケーション(コミュニケーションしているという事実が重要視されるコミュニケーション)へ持っていくのである。「立ち話」には内容も線的な統一性も必要ない。ただ「立ち話」をしているということ、そしてその「不確かさ」が作り出す「話題」が我々を楽しませる。我々がTwitterで感じることは、「言語で表現できる観念」ではなく、「そこに人間がいる(「人間の顔の生きた真実」がある)」ということであり、現実の「立ち話」の延長上として、つまり「不確かさ」が作り出す突発的な話題をもとに、Twitter上の「おしゃべり」を楽しむのである(まさに「繋がりの社会性」以上のメディアなのである)。我々は、大きな不確かさを回避しながら、小さな不確かさを楽しむすべを、Twitterによって手に入れた。
ただし、今までの議論はTwitterの限界をも露呈する。Twitterでは、人と人は所詮は”one of followers”にすぎないのである。ここにあるのは、完全な相互依存関係ではなく、あくまでも「あいまいなアクセス」のもとに作られた「錯覚的な遠近感」である。Twitter上では、特定の個人に近づくすべは相互フォロー状態における「ダイレクトメッセージ」の利用以外に存在しない。たとえばmixiでは、最初から「個人に近づく」という必要性が要請されないため(なぜなら、mixiにおける関係は、インターネット上のそれというよりはむしろ、リアルでの人間関係の延長線上であるためである)、このような問題は起こらず、また、2ちゃんねるでは(IDが出る板を除くとしても)だれもが「匿名集団」の人間であるため、そもそも「個人」という概念が薄い。これに対してTwitterは、ひとりひとりにアカウントが割り振られ、個人という概念が存在しているのにもかかわらず、他の個人に近づくことはできない。つまり、「意味内容を重要視するコミュニケーション」について、Twitterは十分な効果を上げることが出来ない。Twitterが一対多のポータルサイトを志向している結果が、Twitterのひとつの限界を作り上げてしまっているのである。
また、残念ながらTwitterは「炎上」のリスクを避けることが出来ていない。それどころか、「togatter」(ツイートをまとめることが出来るサイト)などの登場によりTwitterの140字制限が実質的に無効となったため、状況は輪をかけてひどくなっている。今回の論考では「炎上」について深く考察することはしないが、そのようなリスクがTwitterにも残っていることは、「あいまいなアクセス」の下に置かれている現状を考えると、非常に危険な存在である。

ツイートはどこへ向かうのか

 Twitterのもっとも重要な外向的性質は、ツイートを外部に対して発信することが出来ることである。しかし、140字でいったい何を発信できるというのだろう。ここで出てくるのは、「ツイートを外部に対して発信すること」と「ツイートしていることそれ自体を外部に対して発信すること」の二つの「発信」である。Twitterは、発言を単体として流通させる存在であると同時に、発言主体の存在自体を流通させる機能を持っており、当の本人がTwitterをしていること自体が問題となる(Twitterでは、他のブログサービスと違い実名で登録しているユーザーが非常に多いことも挙げておくべきだろう)。では、「Twitterをしている」ことそれ自体は、どのように作用するのだろうか。ここでは、あの「錯覚的な遠近感」を思い出すのが当然だろう。すなわち、自分と同じウェブサービスを相手が使用している、という親近感を相手に植え付けることが出来る。だが、我々はもう一歩先へ議論を進めることにしよう。もうひとつの項目、すなわち「ツイートを外部に発信すること」の意義について考える。
 我々がツイートをポストするとき、基本的にはあるツイートが単体で見られているわけではない。そのほかの(その人物による)ツイートも等しくタイムライン上に配置されており、また、あるツイートを単体で見たとしても、そこには常に「アカウント」へのリンクが張られており、多くの人はそこで前後のツイートを確認しようとするだろう。ツイートのトップページを見ている場合と同じく、全てのツイートが複合的にみられていると言ってよいと思われる。ところで、Twitterにおいては、一投稿あたりの情報量が制限されていることから、多くのユーザーが纏まった考察や意見を記述するよりは、自らの生活に密着した「いま、何してる?」をポストするようになる。簡単にいえば、その人物の生活が、フォロワーのタイムラインに現れるのである。この時、ひとつひとつのツイートの統合体は我々の生活、ひいては感覚の拡張(マクルーハン)としての特徴を有する。また、当然、Twitterは情報を媒介する存在であることから、ひとつの「電子メディア」であるということが出来るだろう。
さて、宮台真司はリップマンからブーアスティンまでのメディア論を発展的に継承し、メディアの与える疑似現実が生々しい現実を代替することで、現実感覚を麻痺させている、状態(「疑似現実論」)から、近代が成熟期を迎えると、メディアの向こう側に真実があるという議論は急激に廃れ、代わりに多様なメディアチャンネルごとに異なる現実性が宿るという議論(「多元的現実論」)が主流になる、と主張している 。では、この文脈において、Twitterとは、どのようなメディアなのだろうか。 
Twitterとは、文字数が短く制限されていることから、また、それが「感覚の延長」として機能することから、そのツイートの内容は「生々しく」なりがちであると考えられる。また、Twitterは後述するように「リツイート」によって自らの領域を拡大し、また「ツイート」の内容はその人物の生活に密着したものが多いため、Twitterというひとつのメディアチャンネルに個人の現実性が宿るようになる。これは、宮台の「多元的現実論」という言葉に対し、「一元的現実論」と呼ぶことが出来るだろう。つまり、Twitterにおけるツイートの連続体とは、現実感覚を麻痺させることのなく、また現実を多元化するものでもない、(宮台の批判を乗り越えた)コミュニケーション・システムであるということが出来るのである。ツイートの連続体は、まったく新しいメディアとして我々の前に立ち現われる。それは、人格そのもののコピーであるといっても過言ではないだろう。
 最後に、「リツイート」機能について語っておきたい。先の議論において、リツイートは「ソーシャルブックマーク的な機能を接合したものである」と結論付けたが、おそらくこの考察だけでは読者を納得させることが出来ないだろう。では、「リツイート」の持つ魅力とは何か。それは、「Twitter外のものをTwitter世界の中に持ち込むことが出来る」という点にあると私は考える。もちろん、リツイートはあるツイートを広く知らしめるために行うのが一般的な使用方法である。しかし、現在では多くのサイト・ブログが個別記事に「リツイート」ボタンを設置しており、このボタンを押すことで自分がその記事を読んだことをツイートしてくれるようになっている。まさにこれは、Twitterの外部環境をその内部に取り込むための一つの方法となっている。こうして、Twitter世界は外部環境を次々と取り込み、自らを肥大化させていくのである。

Twitterの未来

濱野智史は著書『アーキテクチャの生態系』のなかで、Twitterがこれ以上成長することは望めないだろう、という結論を出している。だが、本当にそうだろうか。
これまで見たとおり、Twitterはウェブのすべてを統合し、ひとつのコミュニケーションインフラ・メディアのなかに格納する可能性を秘めている。Twitterに必要なのは、新たなユーザー層の獲得ではなく、ウェブ上にあるその他の機能の接合である。すなわち、そこには「様々な情報を一手に引き受ける存在としてのTwitter」という可能性が残されている。かつてYahoo!JAPANがそうであったように、インターネットの「入口」としてのTwitterの可能性は、まだまだ残されているのである。今、多くのサイトは再びポータル化を志向していることは以前に書いた。そのひとつとして、Twitterはそのような側面から脚光を浴びるべきではないのか。ジョン・M・カルキンはマクルーハン/カーペンター著『マクルーハン理論』において、「(『メディアはメッセージである』の)第三の意味は、メディアと人びととの心との関係を強調したものである。メディアはそれを使う人間の知覚習慣を変える。内容とかかわりなく、メディア自体はなかに入ってゆく」と述べている。この言葉が示す通り、Twitterは我々の知覚を変え、人格をまきこみ、生々しい我々の現実を直接に反映するにいたった。その先にあるものは、「人格・ネットの統合化(超ポータル化)」ではないか。
Twitterが情報インフラだけでなく、全ての人格・インターネットを超ポータル化をするためには、ユーザーの間での整備(自動応答botの拡張など)以外にも、Twitter本家レベルでの対応が求められるが、以前に述べたとおりTwitterがポータル化を志向している以上、その未来は遠くないものではないと私は考える。Twitterは人々の人格と全てのウェブを「飲み込む」存在であることが、今後証明されていくであろう。そしてこの「新しいメディアによる社会の再編成」(マクルーハン)が進むことは間違いない。

*1:この「自閉的」にはもう少し補足が必要であろう。今を生きる人間には、「意味喪失感」が体験されることが多い。「意味喪失感」とは、いわゆる「大きな物語の終焉」によって全体的な意味秩序が失われ、それが徹底化されたポストモダンの状況において表象される特有の感覚を指す。この「意味喪失感」を埋め合わせるために、人々は「想像的な」コミュニケーションを発生させる。すなわち、ジャック=ラカンの論理に従えば、象徴界の担保なき現代においては、象徴的な意味付与の代わりに、想像的な(感覚とイメージの世界における)コミュニケーションが意味付与の役割を果たすのである 。つまり、大きな物語によって担保されるはずの個人の有意味性は、ここにきて身近な人々からの意味付与に転化する。ここに、我々が共同体的な「小さな物語」(東浩紀)を共有する人々の間におけるコミュニケーションを行わなくてはならない理由がある。そしてその一番の舞台が、「チャット」なのである。。チャットは、インターネット上において、「小さな物語」を共有する人々によってなされる。いや、運営されていくうちに、固有のそれが発生すると言っても良いだろう。その「コミュニケーション」の心地よさに我々は毒されていくのである。