「何か義憤に駆られてませんか?」――studygiftについて

Google+のフォロワー数が話題となった坂口綾優氏が「studygift」(http://studygift.net/home.php)なるサービスで学費支援を求めていることが話題となっている。このサービスに対する批判というのを一通り見てみると、

  • なんで奨学金を停止になるの?頭悪いの?ちゃんと理由説明しろよ?
  • 目立つ学生しかどうせ金集められないでしょう?
  • 本当に困っている学生に渡したいんだけど?
  • 結局「学費」ってのは隠れ蓑なんでしょ?

が大半を占めている。つまり「学費が欲しい」という『崇高な目的』に対しては、それをネット上で集めるための『正当な理由』が必要となるが、彼女は『正当な理由』を有していないか、あるいは別種の目的を「学費」によって覆い隠している、という批判であろう。
クラウドファンディング - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)」などと異なり、本サービスは気に入った相手に「寄付」をするのに近い。その点を軸に、だらだらと批判に対する批判を。
(追記)分かりやすく言えば、「http://digimaga.net/2012/05/studygift-sakaguchi-aya-marketing」のような「お金をもらう態度じゃない」「理由がない」等の「JASSO/面接官脳」が、この記事の批判対象です。

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上記に挙げたいくつかの批判について、僕は全て無視して構わないと思う。なぜなら、既存の奨学金とこの「studygift」が根本的に異なる点というのは、そのコントロール権限の大半が被支援者(つまりこの彼女)にあることであるからだ。つまり既存の奨学金においては、奨学金を出す側の意見や条件が絶対であり、その条件を外れた場合には原則として奨学金を継続して受給することは出来ない。一方で本サービスは、条件を出すのは支援者側ではなく被支援者側にある。つまり「このような条件を拒絶するなら金を払わないで良い」と言い切ることが出来る(もちろんその良い切り方によっては全く支援を得られないような可能性も十分考慮しなくてはならないが)。今回の事例で言えば、彼女を批判している大多数の人間は、既に「金を払わないで良い」と言われている者達であり、それがいくら文句を垂れたところでサービスとしては何の問題もないだろう。

もちろん彼女自身の風評には大いに影響する。ただ、それもインターネット上でこのような行動をする際のひとつのリスクであり、当然認識しておくべきものであるから、私は問題であるとは思わない。第二号第三号が同じ琴を始める際には忠告が必要であろうとは思う。

このような、既存の奨学金と異なる性格を帯びた本サービスでは、例えば「どうして奨学金を停止されたのかちゃんとした理由を説明して欲しい」といった疑問は、即座に却下される。というのも、その情報を公開しない以上、被支援者が支援者に期待していることは「理由を言わなくても支援してくれる人」であるためである。それを「欲張りすぎ」と非難する人もいるだろう。けれども、どうしてそんなに「欲張る」ことが良くないのだろうか。
それに関連して、次のような疑問も残る。赤の他人であり金を払いもしない人間が発する「どうして奨学金を停止されたのか、そんなことを説明しないでどうしてこのような行為を行うのか」という声に、どうして耳を傾けなくてはならないのか。

2

思うに、このようなサービスの敵は、上に記した意識、つまり「ネット上で金銭を募る際にも、社会一般で奨学金を得る際に行わなくてはならない説明事項は行わなくてはならないものなのだ」という意識であろう。「金をもらうときにはそれ相応の説明をしなくてはならない」という社会通念、と言い換えても良いかもしれない。
インターネット上に散見された多くの批判はこの語句に集約することが出来ると思う。だが本サービスが目指しているものは、そういった社会通念とは全く異なる、むしろ「面白いと思った奴にはした金を投げる乞食サービス」の延長だろう。上記のような批判に対しては、既存の奨学金とのベクトルの違いを鮮烈に語ることで対抗して欲しいと思う。

3(おまけ)

PRから投資に結びつける一連の方法について、新卒採用活動との類似を指摘する声がある。しかし就活における「目立つ学生」と、インターネット上で「目立つ」学生とは大きな乖離がある。前者において目立つ学生は、既に雛型が出来ている。世界一周したバックパッカー、運動会で優勝、海外ボランティア、フリーペーパーetc。一方でインターネット上で目立つ学生は、このような雛型から外れた人間や新たな雛型を作り出そうとする人間である。バックパッカーやボランティア、フリーペーパーなどをネット上でのアピールポイントにしても、大きな話題にはならないだろう(さらにいえば、むしろこういった行為を典型として忌み嫌う人も多い)。ネット上で好まれるのは、新しいサービスを作ったり、そのサービスの成長に寄与したり、上手く利用した人間である。
彼女の例でいれば、次のように単純化できる。「Google+で(…)フォロワー数が日本一になった」という点がネット上ではアピールポイントとなる。だが、就活ではおそらく「Google+で(…)フォロワー数が日本一になったということが、ネット上で大きく話題になった」という点がちょっとしたアピールポイントとなる(というか正直アピールポイントにならないと思う)。

本サービスが就活モデルに似ているというのは確かにそうだろう。しかしその内部は、就活モデルとは異なっている。それは本サービスが「ネット上で大衆に呼びかける」という点にある。そして皮肉なことに、ネット上で金銭を惜しむことなく出す者は、上記のような典型モデルを忌避する。就職活動の気持ち悪さというのは、「優秀さ」の雛型を忠実にどれほどなぞることが出来るのか、という争いに凝縮されているだろう。だがネット上でのアピールというのはそのような雛型をいかに切り崩すことが出来るかという点に凝縮される。その点で、本サービスに必要となる「PR」と就活における「PR」は異なるものであり、同じ枠組みで語られるべき者ではないと考える。

とはいえ、僕自身がそう考えたところで周りからそう思われてしまっては仕方ないので、サービス側の改善も必要だろう。おそらくサービス側の一番悪い点は、彼女しか被支援者がいないということだろう。そのあたりの人選は難しいと思うが……頑張ってもらいたい。

4

これまでの愚痴では、「『金』に対する崇高な意識」を主に批判してきた。金を渡すときには明確な理由が必要であり、リターンやリスクの説明が必要となる、という点である。そしてそれに「学業」というそれまた崇高な目的が加わると、「学費」という悪魔合体的な単語が立ち上がる。
ただ本サービスが一番妥協してはならない点が、(上記にも記述したとおり)このような意識・文化であろう。だからこそ、「学費」という単語に対する目眩――つまり学費とは『正当に』使われるべきであり、『正当な』理由なくして学費補助を受けることは出来ないという意識――に繋がる。
しかし、どうして説明なしに学費補助を受け取ってはならないのか、どうして学費補助を受けた者は円満に大学を卒業しなくてはならないのか、それを説明するのは難しい。前者はリスクの説明だろうか。後者はリターンの問題か?では、どうしてリスクとリターンの説明を「寄付」において行わなくてはならないのか?本サービスが中途半端にその説明を行おうとしているからだろうか?

4'(0519追加)

本サービス自体が「学費」という単語に依存しているという指摘もある。つまり「学費」は「本当にこれに困っているのなら、少しくらい寄付が集まっても問題無いよなあ」と思ってしまう費用であり、「享楽費が欲しい」と主張するのとは全く異なる。その違いを上手く利用しているのではないか、という指摘である。
そういった指摘があるからこそ、「寄付者に対しては私用目的を開示する」等のシステムを整えたのではないか。もちろんその上で、批判者は次のように言うだろう。「さんざん遊んでおいて今から学費といったところで、昔から勉強していればそんな必要もなかっただろう。実質的に遊んで作ったツケを払って下さいと言っているようなものだ」。

結局のところ、誰もが「学費」の崇高性に縛られているのだ。あるいは、履歴書に傷がないものしか学費を得る権利はないと考えているのだ。心の中の小さなJASSOがそう叫んでいるのである。しかし、前述の通りそのような批判は本サービスには不適切である。納得のいく者だけが支援を行い、それに対してはフィードバックを行う。この一連の流れの中で、批判している者は除外されている。小さなJASSO達の声は、内部までには届かないのである。
何が原因にせよ、「学費が払えなくなったので欲しい、きちんと学費に使ったことは公表する」という目的に対し、JASSO的な判断基準のみを持ち出す必要はない。そして、JASSO的でない評価基準が欲しかったからこそ彼女はこのサービスの広告塔となった。そういうことなのではないか。先ほどとの繰り返しになってしまうけれど。

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「自分をPRして、それに応えてくれる人間がサポートを行う」というサービスは、インターネット抜きにはなかなか難しい。しかしネット上においても、それが真に実現した姿を見たことはほとんど無い。本サービスが成功する可能性も、現状では(おそらく)限りなく低い。だが、意識的であるかは分からないにせよ「金銭」に対する文化を変容させようとするこのような挑戦を、僕は歓迎したいと思う。

そして最後に。「本当に困っている学生」に対する支援は、このようなサービスではなく公的な仕組みが行うべきであろう。いや、そう言う必要もない。「本当に困っている学生」というのは、果たしてどのような学生なのだろうか。結局のところ万人が納得する「困窮」は存在しない以上(そんなもの生活保護に対する議論を見ていれば丸わかりだろう)、「自分は困っています」と出てきてもらうしか方策はないのではないか。「出てこれない人間に対しては?」――いい加減止めよう。そもそも、困窮とは客観的かつ相対的な概念ではないのだ。