表現規制の問題ではなく、「宣伝手法」の妥当性が問われている−−『まどか☆マギカ』劇場版について

http://togetter.com/li/386912を見て。

根底としてのコミュニケーション不全

劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』において、「子供が見て悲しい思いをした」という件、そこからつながる表現規制問題がTwitterを賑わせている。ただ、Twitterでは、「残虐な描写があるから見せるべきではない/分かるようにすべき」という議論が非常に多い。あるいはそれを超えて、「世の中とは理不尽なものであるから、理不尽な映画/理不尽な映画を見てしまうというシチュエーションも経験すべき」というような精神論まで飛び出す始末である。最初に言っておく。これは表現規制の問題ではない。

「残虐な描写があるから見せるべきではない」という態度は、あくまでも「大人一般が子供一般に対してどのような態度をとるか」という話であろう。そしてこの話は、「この程度では残虐ではない」「少しばかり残虐でも良い」という具体的な表現規制論に進んでいく。……はっきり言って全く無意味である。これらの意見はあくまでも「大人の子供に対する欲望」を基準としたものであって、子供を独立した欲望を持つ鑑賞者として一切想定していないためだ。

あるいは、そこにある大人の欲望は、「まどか☆マギカのような話が見たいという子供」という前提を含んでいる。「あのような話だと知っていたら、見なかったのに」という思考は一切考慮されていない。子供を一人の人格者として扱うならば、ここで生じているより重要な問題は、「残虐な話・絶望的に悲劇的な話だと知っていたら見ることはなかった」という層に対し、鑑賞を予め挫けさせるような宣伝を取ることは出来なかったのか、という問題であろう。この問題においては、子供が「見たくない」という自らの欲望を充足させることが出来なかったことが問題とされており、ゾーニングのような「大人の欲望」は介在しない。

上述した問題は、制作者と視聴者のコミュニケーション不全によって生じている。つまりここでは、視聴者が意図していた話と、制作者の作った話が違っていたという「裏切り」がベースとなっている。ここでレーティングの話をしておこう。レーティングというのは、(広義の)制作側からの、「この映画には『不適切な』シーンがある」という視聴者側へのメッセージの一種として解釈することが出来る。ただ、あくまでもこれは「メッセージの一種」である。視聴者へ、映画の内容を伝達する方法、つまり宣伝技法は、レーティングという直接的な手法を使用しなくとも、いくらでも存在する。ゆえに、本作で発生しているコミュニケーション不全に対する処方箋は、レーティングありきというわけではない。レーティングはあくまでも「コミュニケーション手法」の一種にすぎず、宣伝技法の中で解消できるのであれば、使用する必要などどこにもない。

ところで、映画は裏切りが大好きだ。僕も「どんでん返し」が大好きで、最近は「最後にどんでん返しがあるよ!」というのを一番の宣伝文句とする映画も増えている。では本作は、そういった「裏切り」と違いがあるのだろうか。

誠実な裏切りと不誠実な裏切り

映画における「裏切り」には、誠実なものとそうでないものが存在する。そして本作品は、明らかに後者に属する。誠実さと不誠実さを峻別するのは、やはり「コミュニケーション」である。

「誠実な裏切り」を持つ映画において、制作者は視聴者へのコミュニケーションの一環として、そこに「裏切り」が仕組まれていることをほのめかす。例えば、『ユージュアル・サスペクツ』の劇場公開版ポスターには、大きく「?」の文字が書かれてたり、『シックス・センス』では「ラストに近づくほど怖くなる」ことをCM*1や劇場のモニターで強調している。近年は『SAW』のように「謎を解け」という点を最も押し出していることが多い。もっとも、裏切りを持つ作品はほとんどがミステリーやサスペンスだ。こういうジャンルの作品は、そもそも「裏切り」の構造が前提されていると言って良い。つまり「裏切り」の存在は視聴者・制作者の前提であり、「そのジャンルを見る」という行為自体が裏切りを期待するものと同義であり、制作者はそれに答えるという「コミュニケーション」を持つ。

本作の持つ「裏切り」の要素は、「『典型的な魔法少女作品』を装いつつ、その中に隠れていそうな底抜けに救いようのない悲劇を物語る」という点に凝縮されている。そしてTV放映版でも、「典型的な魔法少女作品」であるかのような宣伝が行われたのは記憶に新しい。映画においても、そのような宣伝が繰り返されている*2
典型的な魔法少女作品を装うのだから、そういう作品を求める層が映画館に来る可能性があることは容易に予想がつく。彼ら(彼女ら)は、別に「どんでん返し」を求めてやってきたわけではない。そういう層に対して「救われない悲劇的な結末」を見せることこそが、「不誠実な裏切り」である。「宣伝どおりの物語が続くことを期待してやってきたのに、それを根本から否定する内容であった」というのは、「おもしろい/おもしろくない」という価値判断以前に、「客を騙している」としか言いようがない。ただし、このような「非誠実な裏切り」にこそ映画の価値があるのだとする方もいるだろう。そのような「鑑賞態度」は、映画のハイカルチャー化を押しとどめるポジティブな意味があったりもするのだろう。だが、はたしてそれを「子供向け作品を装う」という本作の態度に敷衍することは許容されるだろうか。

つまり、「誠実な裏切り」においては、裏切りを求める視聴者に対し何らかのギミックを提供する一連の流れに「コミュニケーション」が存在しているのである。それは、例えば宣伝において「そこに裏切りがある」ことをほのめかしたり、「史上最大のミステリー」「誰もが驚くサスペンス」といった言い方で直接的にアピールする。だが、「不誠実な裏切り」においては、そもそも視聴者は「裏切り」を求めていない。宣伝通りの物語がそのまま平凡に過ぎていくことを望んでいる。「最初からこんな話だと知っていたら見なかったのに」という声が一切想定されていないのである。「有料アダルトサイトを見ようと思って課金したらグロ画像へのリンクであった」なんてことがあったら誰だって怒る。それと同じようなことが映画館で起こった、その程度といえばその程度の問題である。

宣伝におけるコミュニケーション

「非誠実な裏切り」が非誠実である理由は、そこにコミュニケーションが欠けているためである。欠けているなら付け足してやれば良い。適切な情報を与えていないがために「本来想定していない層」が映画に足を運んでしまうことが問題とされているのであれば、適切な情報を開示するという誠実さを持つだけで問題はおおかた解決するのではないか。

その付け足す方法のひとつが「レーティング」であるが、それは所詮ひとつの選択肢にすぎないし、監督が主体的に使えるわけでもない*3。宣伝のうちに誠実なコミュニケーションを行いさえすればそれで良い。つまり、「この物語には<裏切り>が含まれている」ということを暗に象徴するような宣伝技法を構築しさえすればそれで良い。本作は「一般的な魔法少女もの」と偽装して宣伝を行っているが、TV放映時には、実のところ「深夜帯である」「虚淵玄」という情報もまた流通しており、それが「タダの魔法少女モノではないだろう」という「裏切り」を示唆する仕組みとなっていた。しかし映画版ともなれば、そのような情報を事前情報として解さない者も多いだろう。ゆえに、同じような「示唆」を、別の要素をもって行う必要が生じる。本作は「裏切り」を隠しつつも遂行するところに一番の面白さがある。だからこそ裏切りの内容を明かすことは出来ないが、しかしそこに底抜けに絶望的で悲劇的な裏切りがあることをほのめかすことはポスター一枚で十分に行える(あるいは表現者としてその程度は行えなくてはならない)。そういった「ほのめかし」をいれることだけで、コミュニケーション不全は解消することが出来る。なお、ここで「ほのめかし」とかいてあるのは、むろん直接的な表現は映画を見る楽しみそれ自体を奪うためである……このあたりの「バランス」や「程度」−−「もちろんそこには「非誠実な裏切り」自体に映画の可能性を見いだす態度も含む−−こそが、議論すべきポイントであろう。

(補)「見たい人に見せる」

「見たい人をたくさん作る」「見たい人に見せる」と同時に、「見たくない人には見せない」こともまた宣伝の一つの重要な使命である。正直、本作は公開上映館の少なさから言ってアニメファン以外の層を想定していないであろうし、インターネット上の前評判に触れてから見ることが「当たり前」と見なされている(つまり、劇場であのポスターを見て、「ふふふ、ここからこうなっちゃんだよな」とニヤニヤして楽しむことが当然だと思われている)のではないかと思う。だが映画となれば新規客が流れてくる可能性を否定することは出来ない。ギミックを隠しつつも全体像を象徴するような宣伝を行うことで、その条件を最も簡単にクリアすることができる。

テレビ版においては、放映に関するメタ情報が「全体像の象徴」に一役買っていた。映画においてはテレビ版の情報が「全体像の象徴に」……のはずが、確かに全く知識がないまま映画館でこの映画を見ようと思ったら、上述のような誤解が生まれても仕方ない面はある。そういった誤解を「ごく少数」として無視するか、誤解を解くコミュニケーションを施すかは制作者次第だろう。

途方もなくつまらないものばかり乱造されている深夜アニメ発の映画は、基本的に「深夜アニメでターゲットであった層から集客する」ことをメインとしている(と思われる)。そこから一歩抜けていくためには映画技法をより習知する必要があると以前から感じているが、「宣伝」についても同じ事が言えるかもしれない。

追記(10/10)

「裏切り」という単語を、字面だけ見て判断し拒絶反応を起こされても困ります。本文中での使用は「どんでん返し」とほぼ同義であって、「期待外れ」といった意味ではありません。

*1:CMについては問題にしたくない。というのも、実際に劇場に足を運んでいる者が、CMや番宣・朝のニュースなどで情報を仕入れたかどうか怪しいためである。つまり、ここでは①宣伝の内容 と②宣伝の浸透率 の二種を問題としなくてはならないが、CMや番宣については、①を問題とする以前に②の点で今回想定しているような「劇場でふらっと選択した」層にリーチしているか分からない。ゆえに、今回の記事ではあくまでも劇場での宣伝--つまり劇場のポスターやモニター映像--を問題としたい。

*2:ちなみにネットに転がっている番宣CMと称しているものの多くはMAD作品なので、探す際はご注意を

*3:一応言っておくと、私はレーティングには反対の立場であるし、さらに言えば、レーティングは「表現の放棄」であると考えている。つまり、「私は『予想外の裏切り』を宣伝の中に凝縮して表現することが出来ない無能です」と言っているようなものだ。また、この作品をレーティングしてしまえば、多くのアニメ映画もまた規制の対象に入ることとなり、「一般向け」表現の幅はかなり萎縮してしまうだろう