インターネット上で欲するのは、議論ではなくつながり

http://d.hatena.ne.jp/amourix/20080307/1204868889
僕らはインターネットで議論をしている。けれども、僕らはインターネット上で本当に議論を求めているのだろうか? 本当に欲しいものは、他者と繋がっている感覚ではないだろうか。

人はまず言葉を発明した。次に電話を発明し、そしてインターネットを発明した。人と人とのコミュニケーションはこの流れを通じてどんどんと簡単になっていった。
しかしその中では、先にあげたリンクに書かれているように、人間が議論をする上で無意識に汲み取る諸動作が一切省略された。電話においては声のトーンのみ、インターネットでは軽い「テキスト遊び」しか、非言語的なコミュニケーションシステムが存在しない。そういった環境下においては、意見の表明は出来ても議論は出来ない。そこで起こるのは、互いの意見が暴力性を伴う文字情報としてぶつかり合うことだけで、両者の意見は決して次の段階に進むことがない。*1

それでも僕たちがインターネットを愛し、インターネット上にこうして文字を綴るのは、特定の物語を軸に他人と繋がっているその感覚を無意識のうちに欲しているからではないか。昔「ぼのぼの」という漫画に「人間っていうのは、1人で生きるのが基本じゃないんだ。2人以上で生きるのが基本なのだ」という言葉があった。「漫画かよ」と思われる方は、「人間は社会的動物である」というアリストテレスの言葉を思い出していただければ早い。これらの言葉が表すように、人間は社会の中での位置づけを得ることで初めて生を実感することが出来るのである。インターネット上でも、もちろん同じことが言える。つまり、僕たちはインターネット上で文章を書き、自らの存在を知らせ、特定の物語を軸にある種の社会を成立させることで、生を実感しているのではないか、と。孤独を望まない僕たちは、知らず知らずのうちにインターネットを「コミュニティ」化する方向に進化させたのだ。そして今、はてなブックマークニコニコ動画2ちゃんねるも、すべては「特定の物語を軸としたつながり」を持つものであり、僕たちはそのつながりのなかの一つに収まることで、精神的な安らぎを得ている。

いや、もしかしたら「特定の物語」もいらないのかもしれない。Twitterというツールが爆発的に流行したが、これは「物語も何もないが、人と人とのつながりを実感できるツール」だ。もはや僕たちは、他人と繋がっているという感覚を猛烈に欲していて、だからこそTwitterを愛してやまないのかもしれない。何かあったときにTwitterを見て、F5キーを押すたびにその内容が変わっていく有様をみて、「他人と繋がっている」という安らぎを得るのではないか。

コミュニケーションの内容などどうでもい。ただコミュニケーションをしていることそれ自体が価値を持つ。それが僕たちの本質であり、それを実現したのがインターネットなのではないか。議論をすることも楽しいが、本能的に欲しているのは議論ではなく、「他人と同じ話題で結ばれていること」からくる安堵ではないか。体から透明な触手を伸ばし、常に他人とのつながりを求める僕たちにとって、その触手を隠しつつも他人と確実に結びつけるインターネットは、「コミュニケーションをする」ことが意味を持つ僕らにとっては、本当に素晴らしいツールなのだ。 なにせ、僕たちが他人とのつながりを求めていることも、つながりにおける適切な距離を模索する必要もなく、ただブラウザを立ち上げるだけで、他人とのつながりを得ることが出来るのだから。結局のところ、はてな等で行われている「議論」も、議論の決着を求めているのではなく、「議論していること」そのものを楽しんでいるのではないか。僕たちは「議論」を通じて他人とのつながりを実感し、それを消費しているのではないか。

ネガティブコメント? ああ、そういうコメントをする彼らだって、「僕のほうをむいてくれよ」と、著者に向かって叫んでいるかもしれない。あるいは、自らを承認して欲しい願望に駆られているのかもしれない*2。そうやって人はつながりを求めて、今日もつながりで苦労していく。

(追記)
調べてみたら東浩紀氏が似たようなことを書いていたので、あげておきます。
http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMITbe000007112007

*1:ここでいう議論とは、両者の意見を統合する形で一つの解決を見いだすことであり、言葉と言葉をぶつけ合うことではない。インターネット上では、「議論のようなもの」は起こるが、それは「結果」にたどり着くことがほとんどない。(たどり着いたとしても、どちらかが「論破される」という状況から起こるものである。)その意味で、インターネット上にある「議論のようなもの」は現実での議論とは違っているものであると思う。インターネット上で行われているのは「論破のし合い」であって、「議論」ではない。

*2:この話は別のところで書いた覚えがあるので、省略します