「いじめ」と「いじり」の違いは何か

「いじめ」っつーか「いじり」だろ - ニート☆ポップ教NEO」を発端に、「ニコニコ大会議」で起こった事は「いじめ」なのか「いじり」なのか、という事が、問題からスピンアウトして一つの論争となっている。実際問題客観的に見て「いじり」と「いじめ」は区別がつかないことが多く、またいじめの当事者達が彼らの行動を自己弁護するために「今のはいじりだった」と言うことは非常に良くあることであるし、その逆ももちろんある。

「当事者が了解していたら、それはいじりだ」という言い方も出来るが、id:hokusyu氏が「いじめ/ファシズム/引きつった笑い - 過ぎ去ろうとしない過去」で述べているとおり、当事者(つまり「いじられ」「いじめられ」側)の意見が場の雰囲気によって歪曲されている場合も多く、その判定は難しいのが実情である。

なのでここでひとつ、僕が大いに同意する「いじり」と「いじめ」の決定的な違いについて、声を大にしていってしまいたい(もちろん異論は認めるし、俺定義なのでむしろ歓迎する。)。それは、

コミュニケーションの失敗をいじ(め)る側に置くのが「いじり」、いじ(め)られた側に置くのが「いじめ」

ということである。即ち、「いじり」とは、いじられる人間が外部化*1(いじる側とは違うポジションにいる、といった方がいいかも)されるかされないか、というギリギリのラインにあるが、それが「いじめ」ではなく「いじり」である時は、コミュニケーションの不全の責任は、すべて「いじり」側が持つべき、とされるのではないか。

もし、いじ(め)られる側がいじられて激怒した、あるいは「もうやめてくれ」と不快感を表明したとしよう。そのとき、「俺がやりすぎた」として、その責任をいじ(め)る側がとるのが「いじり」である。対して、その責任を放棄し、「お前何ムキになってるの?空気読めよ」と、周りの人間(集団)のために人間性の放棄を対象に求めること、これが「いじめ」である。いじめ(め)られる側は、あくまでも尊重されなくてはならない*2

これは、いじ(め)られる対象が集団に対する影響力を認められているか否か、という話と同じである。つまり、いじ(め)られる側の言説がいじめる側の言説と対等な、あるいは上位の意見として「俺が嫌なんだからもうやめろ」という感じに尊重されればそれは「いじり」であるし、行為をひとつのコミュニケーションとして両者が認識している証左であるととれる。一方、いじ(め)られる側の言説が全く無視され、全てがいじ(め)る側の論理に回収されてしまうこと、これが「いじめ」である。前者では一つのコミュニケーションが成立しているが、後者ではコミュニケーションのダシになっており、同一クラスタ上に彼は存在しない。その意味で後者は残虐性が伴うが、前者には残虐性は存在しない。*3 つまり、

いじ(め)られる側に反論の余地や主体性があり、かついじ(め)る側がそれを尊重するならば、そこにいじめはない(それはいじりである)*4もっとも、この微妙な主体性の扱いがあるからこそ、いじめといじりの境界というのは明確に設定できないし、どちらから見ても否定されてしまう現場というのが、確かに存在してしまう。

ということである。なお、この要件で「いじめ」が認定されるとき、つまり構造に加えて「主体性・尊敬の欠如」が存在するとされるとき、構造は完全に固定化されており、いじめの要件とされる「階層の固定化」と行為の継続にも合致する(というのも、いじり→いじめは存在してもいじめ→いじりは存在しない等、構造は不可逆的である)。

となると、「主体性や影響力・尊厳の欠如」の問題、つまり「彼に反論の余地や影響力・主体性、及びそれに対する尊厳が残されているのか」という問題が、構造の下部に存在することが分かる。まさしく、これが構造を完全化・固定化し、いじめの継続をもたらす第二のいじめの要件となっているのである。以下、ニコニコ大会議の現場においては「影響力の欠如」が発生しかかっており、逆に「はてなブックマーク」は同様の構造は持ちつつも「欠如」は発生していないことを示す。

(ただし、「主体性や影響力を残していても、あまりに酷かったらやっぱりいじめだよ」という意見はあると思う。その辺はやっぱりグレーゾーンになってしまうかな。完全なる二分法は不可能。)

大会議で、増田氏に「反論の余地や主体性、尊敬の念」はあったのか

はてブで件の例が批判されていたことについて、「セカンドいじめだ」という意見が散見出来たが、そこには確かに構造が存在しているものの、「多数に対して言論をもって反論する余地が残されている」という点(これはかなり大きい)や、「人格ではなく言説が理論的根拠から批判されている」という点、IDによって人格が特定できる点において、「欠如」が発生しているとは言い難く、真に「いじめ化」する危険性は僅少であるといえる。一方でニコニコ大会議の場合、既に指摘されているとおり、それが身体的特徴に端を発するものであったこと、運営側が「状態の継続」を狙うようなワーキングをしたということなど、「欠如」の要因が数多く存在しており、彼は大多数に抗う力を持っているとは言い難い。「いじめ化」する確率は、「セカンドいじめ」の言説に比べはるかに多い。

確かに、構造があるといって「いじめだ」と言い切るのは、些か早計であった。「いじり」をはじめとする、構造を逆に利用する形で成立するコミュニケーションの存在は認めなくてはならない。しかしそこに構造がある以上、それらが危険な行為であることには変わりない。「いじ(め)られる側が尊重されている」という状況がなくなれば、状況はいつでもいじめに転落し、言説を奪われた以上状況は半永久的に持続してしまう。そして、「大会議」の状況は、まさしくそのような状態にある。例えば彼はあの場所で反論できたのか。反論したところで火に油を注ぐ結果となるだけではなかったのか。ニコニコ動画で彼のMADが作られ、永久に「いじられる」可能性はなかったのか。彼はその時点で、自らのキャラクター化に対し抗う力を認められていたのだろうか。はてなにおける彼は、影響力や主体性を持っていた。しかし大会議における彼は、まさしくそれを有していない。ここにおいて、かの件は「いじめに転落する可能性を大いに有していた」ということができる。もはや「いじり」ではない。構造がいじめに転落しようとしているまさにその時、その場が区切られることによって彼は一時的に救われ、その一時性が今も続いているのである。あの場を舞台とした動画がニコニコ動画上にもっと広く出回っていたらと思うと、恐ろしくて仕方がない。

重要なのはこれから

だが、今考えるべき事は、このような危険性を秘めた「ニコニコ動画」というシステムや利用者はどうなるべきか、あるいは「ニコニコ生放送」というシステムが今後活用されるに当たり何に注意しなくてはならないのか、といった、「先」の問題である。「増田氏は耐えた。だからお前も」「これからもああいう路線で」というのは、さすがにマズい。また、ニコニコ動画利用者の一部が普段からかのような対応を目立って行っている(対象は動画の中の人間だが)ことは紛れもない事実であり、この「動画の中の人間」に向けられた視線が外部へと向くことは容易に想定でき、それは誠に危険なことであるニコニコ動画はどうあるべきなのか。「ユーザーと共につくるニコニコ動画」と運営側が言っている以上、この件に関しては、利用者も共に考える必要があると思う。

番外:人間はキャラクター化の現場に耐えられるのか?

アニメの中の登場人物や有名人に加え、一般人が次々とキャラクター化して消費されていくのがニコニコ動画であることは、上記より垣間見えたことである。また、一度キャラクター化すると二度と「人間」に戻ることはなく、半永久的に弄ばれ続ける可能性もある。その状況をおもしろがれる人はいるだろうが、しかし一方でそれを嫌がる人もいる。このとき、後者は自主的にニコニコ動画から消え去る、という形で、最終的に「人間をキャラクタ化して遊べる人達」が集う場所として、ニコニコ動画が固定化しやしないだろうか。ニコニコ動画はこのままいくと自主的にそのような「文化」を身につけざるを得ないのである。そのようなニコニコ動画の存在自体を、インターネット全体が許すとは思えない。このままいくと、ニコニコ動画はいずれ淘汰されるべき存在に変質してしまうように思える。

なお、過去のエントリを含め、「いじめ」についていわゆる「集団いじめ」を想定した。また、()を多用したため見にくくなってしまったのは大変申し訳ない。

(7月10日注釈追加)

*1:「過度に内部化ではないか」と指摘されたが、そういう言い方も出来ると思う。よってたつポジションの違いかな、と思ったので、今回のエントリでは混乱を避けるためにこのような書き方をする。だが、あまりこういう言い方はしない方がいいな。

*2:もちろん、ギリギリのラインにある「いじり」という行為を認めるか否か、という根源的な話は別にある

*3:さらに言ってしまうと、いじめの現場においては、「いじ(め)られる側ではない側」、いわゆる「いじめを傍観している人間」も、自ら言説するという人間性・主体性を奪われてしまった存在である。但し、いじ(め)られる側に主体性が残っていれば打破出来る状態であるから、その消失を境に「いじり」と「いじめ」を区別して良いと思う。

*4:もちろんこれは、いじ(め)られ側が「いじめだ」と感じれば、そこに「いじめ」がある、という言説をも内包する。それは「いじめだからやめろ!」という「いじ(め)られ側」の「主張」が尊重されていないことと同義だからである。そもそも、感覚的にいじめを感じるのは上のようなことが起こっている時だ。