「テレビ要らない」が含意する複数の要素について

最近、あちこちで「2011年をもってテレビは滅亡する」や、「自分は前からテレビを見ていない。だからテレビは必要ない」という、(統計と個別の事象をごっちゃにした)かなり過激な意見を目にします。先日ふと、そのような意見は「テレビ」をどのような存在として捉えているのだろうか、と気になりました。

「テレビ」が示す四つの概念

「テレビ」という言葉は、それ自体が四つ(あるいはそれ以上)の概念を併せ持っているように見受けられます。それは、

  • ハコとしてのテレビ
  • インフラとしてのテレビ
  • コンテンツとしてのテレビ
  • 大枠としてのテレビ産業

です。それらについて、ひとつひとつ見ていきましょう。

1.ハコとしてのテレビ

「ハコとしてのテレビ」とは、文字通り、画面とチューナーによって構成される機材としてのテレビです。

2.インフラとしてのテレビ

「インフラとしてのテレビ」とは、地上波やCS・BSといった、テレビ局から電波を使用してアンテナを経由しチューナーまで送り届ける、その仕組みです。

3.コンテンツとしてのテレビ

「コンテンツとしてのテレビ」とは、テレビ番組のことです。また、私は「コンテンツとしてのテレビ」をここでさらに2つの枠に分けて考えたいと想っております。それは、「即時性を持つコンテンツ」と「持続性を持つコンテンツ」です。前者はニュース番組やスポーツ中継のような鮮度が求められるコンテンツ、後者はバラエティ番組やドラマ・ニュース・アニメのように、鮮度が無く、また持続的に再放送可能である存在を指します。

4.大枠としてのテレビ産業

最後に存在しているのが、「テレビ産業」です。これは、テレビ局や総務省、各種権利団体を含めた、一般人からすると謎に包まれた「ギョーカイ」です。中で何が行われているのか、その真実をしることはほとんど出来ません。

殺されるのはどのテレビか

さて、以上の4分割法を採用した上で、改めて「テレビは滅亡する」という論議を考えたいと思います。ソースとして、「http://japan.cnet.com/blog/mugendai/2008/07/26/entry_27012521/」という記事及びそれに対するはてなブックマークの反応を想定してみましょう。

まず、大枠として示されているのが、アナログからデジタルへの移行に伴う「1.ハコとしてのテレビ」と「2.インフラとしてのテレビ」の衰退です。いや、正確に言えば、「2.インフラとしてのテレビ」が大幅に変化するという変えようもない現状が存在するからこそ、他の要因を後押しする形でそれが「1.ハコとしてのテレビ」を消す、という構造になっています。その具体例や「なぜそうなってしまったのか」を示しているのが、その下に続くフィンランド・イギリスの事例や総務省の件でしょう。つまり彼らは、「2.インフラとしてのテレビ」の強制退場とその他の雑多な原因(これは「3.コンテンツとしてのテレビ」の劣化と、「4.大枠としてのテレビ産業」のブラックボックス性であることも示されています)が「1.ハコとしてのテレビ」を否定せざるを得なかった、と言っているのです。人々が今「1.ハコとしてのテレビ」を不必要としたのではなく、天秤にかけた結果、2の変化が致命的な“重り“となり、「なら不必要でもいいや」と、消極的に不必要を選んだのだ、ということです。

繰り返しになりますが、上の記事でも見られたように、壊滅を予想されているのは「1.ハコとしてのテレビ」です。そしてそれは、「2〜4のテレビ」の変化が「1.ハコとしてのテレビ」を不必要とした、という形でまとめられています。もしかしたら、「1.ハコとしてのテレビ」が見向きもされなくなれば、広告の関係から「4.大枠としてのテレビ産業」は死に、「2.インフラとしてのテレビ」も全く利用価値が無くなる……という連鎖も想定されているかもしれません。

一方はてなブックマークでは、「テレビ全体」を否定するような書き込みが目立っていることは特筆すべきでしょう。はたして、「テレビ全体」は否定できるものなのか、私はそこに強い疑問を感じます。

殺されないテレビはどのテレビか

さて、上で見たとおり、2の変革と3の変化、4の態度が1の滅亡を引き起こすであろう、というのが「テレビ滅亡派」のひとつの意見であることは分かりました。ではここで、「殺されないテレビ」は存在するのか、ということについて、最後に考えておきたいと思います。

結論から言えば、(何度も言っているとおり)私は「3.コンテンツとしてのテレビ」は生き残るのではないか、と考えています。いや、正確に言えば、「持続性を持つコンテンツ」は確実に生き残り、「即時性を持つコンテンツ」は生き残る可能性もある、という形になりましょうか。
さて、前者は、莫大な資本その他が存在しなければ作れないものです。ドラマ・映画・アニメ・ドキュメンタリー・バラエティー……その一部のクオリティが劣化したとはいえ、例えばドラマやアニメ、ドキュメンタリーなどは今でも多くの支持を集めています。それは、「ワンセグチューナー」がバカ売れしている事実や、YouTubeニコニコ動画にアップロードされた諸作品がMADなど比にならないほど人気であることが証明しているでしょう。これらのコンテンツは今でも必要とされている以上、何らかの形で(インフラやハコを変えながら)生き残るのではないか、というのが、僕の考えです。それを支えるのは「4.大枠としてのテレビ産業」かもしれないし、他の何か(例えば、その分離体)かもしれない。しかし、集客性のあるものにビジネスは飛びつきますから、何らかの形で残るのは間違いないと思います。
対して後者に関しては、大規模な資本等が存在しなくても、コンピュータ一台とUstream等で間に合うことです。よって、それらについては担い手が個人へと変化するかもしれない。前者は担い手が個人になることは確実無理なのに対し、後者は個人でも可能な世の中になったのです。それをもって、私は「後者は残る可能性が高い」と書きました。

結論:コンテンツとしてのテレビの価値は一概に否定できない

以上、私が述べてきたのは、ハコとしてのテレビの否定と、コンテンツとしてのテレビの否定を一緒くたにするのはよろしくない、ということです。確かに、後者の「劣化」が前者に続いている面はありますが、それは後者の全てを否定することにはなりません。「劣化したコンテンツも存在する」というだけであり、「全てのコンテンツが劣化した」わけではない。私は、なにやら「4.大枠としてのテレビ産業」に対する嫌悪感が「1〜3」のテレビ全てを否定する感情に繋がっているのではないか、と思うことさえあるくらい、「テレビ全てが滅亡する」あるいは「誰もテレビを必要としていない」という意見には懐疑的です。

「テレビ滅亡論」は、様々な要素を一つの結論につなげすぎです。例えば彼らは、ワンセグチューナーがバカ売れしている現状を見ても、「テレビはいずれなくなるだろう」と主語を大きくして語り続けることが出来るのでしょうか。この例の前では、「1.ハコとしてのテレビ」ですら死なず、形を変えて生き残ることになります。このさい言ってしまえば、彼らは「テレビが滅亡する」と言っているのではなく、「4.大枠としてのテレビ産業に死んで貰いたい」だけなのではないでしょうか。「テレビ滅亡論」を唱える方には、「テレビは滅亡するのだ」といいたいのか、あるいは「テレビはもう滅亡しろ」と言いたいのか、そしてどの次元のテレビについて語っているのか、そのあたりを明確にしていただきたいと考えております。