生活保護は今のままでいい

テレ朝が生活保護を強烈に非難【働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww】
『生活保護受給者は人生の勝ち組』 支給金でギャンブル三昧、働く必要がない:ニュー速VIPブログ(`・ω・´)
2ちゃんねるTwitter等を少し見れば明らかなように、我々が思う以上に多くの人間が、「生活保護は『改革』した方が良い」と訴えている。彼らは決まって「生活保護は弱者救済のためではなく不正受給の温床になっており、またケースワーカーや役所の対応の悪さから本当に必要な人に渡っていない」という主張から、転じて「生活保護は贅沢だ、今すぐ廃止するか現物支給に切り替えるべきだ」という事を平気で口走ってしまう。もちろん、今の生活保護に問題がないとは言わない。だが、役所の対応や不正受給の根絶を訴えるのと、「現物支給で良い」と言い切ってしまうことの間には、想像以上に巨大な溝が存在する。つまり前者は生活保護という基盤を認めた上で、その制度改革を論じているのに対し、後者は公的扶助政策の実現である「生活保護」について、その理念の根幹をまさに切り崩そうとしているのである。しかし、私は生活保護という、他の政策に比べて広く知れ渡っている本政策を、むしろ弱者が堂々と権利を主張するための一つの道具として利用するのが望ましいと考えている。どういうことか。

生活保護がこれほどまでにたたかれる要因の一つは、生活保護があまりにも「直接的」で、かつ「目に見えやすい」政策であるからであろう。世の中には、これほどまでに明確に弱者を救済する手立てが存在していない。だから、自らの生活に不満を抱く者は、そこにどのような不満があれども、直接的に金銭の授受が発生し、かつ万人に開かれていることを謳っている生活保護というシステムをとりあえず叩いてみるのである。気持ちは分かる。自分たちは苦労している。なのにあいつらは楽をして金をもらっている。これは不公平ではないか。例えば、そこに劣悪な労働環境があったり、非正規雇用が常態化している実態があったとしても、その解決を求めるのではなく、分かりやすい不満のはけ口として、まず「生活保護」が選ばれているのである。

必要なのは発想の転換である。自分より受給者が楽をしている、だから受給者は云々、という論理を求めるのではなく、受給者よりも苦労している自分に対しても、状況を改善するような手立てがさしのべられても良いのではないか、と。憲法において、我々は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があるとされ、それを実際の社会制度として組み込んだものが生活保護である。ゆえに、生活保護というものは、真に「健康で文化的な最低限度の生活」を保証するものではなくてはならない。すなわち、公的に、我々は「生活保護以下の生活は存在しない」と認識するべきであり、その「生活保護の水準」こそが、まさに我々が守らなくてはならない「最悪」の水準なのであると認識することが重要なのだ。近年問題となっているワーキング・プアや(若年)ホームレスは、明らかに「最低限度の生活」を営んでいない。ここで必要なのは、生活保護という「最低限度」を引き下げ、我々の意識レベルで「このレベルは最低限度ではなく、むしろ裕福な部類に入る」と認識を改めることではなく、断固として「生活保護は最低限度だ」と主張し、その水準以下の生活を行う者を救済する政策をもとめることである。

言い換えれば、生活保護を取り巻くヘイトクライムには、政府の政策として、生活保護以外の所得移転システムが十分に配備されていない現状が見え隠れしている。我々は、彼らの主張を鵜呑みにして、「それでは、生活保護をなくせばよいのか」と考えるべきではない。生活保護の撤廃は、即座に「最低水準」の撤廃を意味し、我々の生活水準は瞬く間に下がっていくだろう。それは、人々の間に「生活保護以下の水準には下げないよう努力しよう」という意識が消失することを意味するのだから。真に彼らの意を汲むのであれば、生活保護以外の所得移転システムの配備、あるいは十分な水準での最低時給の設定や、アルバイトやパートタイムで生活をまかなういわゆる「フリーター」、派遣社員の地位向上に努めるべきであろう。

あくまでも、生活保護は「最低限度」を保障するものである。彼らは贅沢をしているから最低限度を下げよう、ではない。彼らの生活が最低なら俺たちの生活ももっと保障しろ、が正しい。内心、マスメディアや政府関係者は生活保護が糾弾されている実態を見てほくそ笑んでいるのではないか。「ああ、弱者にはこれからも弱者でいてもらおう」と。冗談じゃない。「生活保護は最低限度だ」。これが認識の転換点となり、認識は世論を変えていく力さえ秘めている。