「意識の高い学生」とは何か、その意義と批判 #maspla

※エントリを二つ書きましたが、ここに統合し以前のものは削除いたしました。

3月6日日曜日に、新宿ロフトプラスワンと高田馬場10°Cafeにおいて、「マスタープラン」と題された学生の学生による「朝まで生テレビ」が行われた。第一部は友人の家でぼーっと眺めていたのだが、第二部については面白そうなので高田馬場まで出向いて、そのまま「第三部」、すなわち単なる飲み会にまで参加して帰って行った。おそらく、「マスタープラン」という存在に対して否定的な価値観を持ってその場に臨み、かつある程度ほかの参加者とも会話を交わした人間は僕一人だけだったのではないかと思う。中には僕の存在に気分を害したパネリストもいただろう。

本原稿においては、主に「マスタープラン」という催しにかこつけて僕の「意識の高い学生」論を披露することになる。よって、「マスタープラン」の出来不出来に関する議論を求めている方にとっては、少々味気ないかもしれない。補足しておけば、「マスタープラン」は第二部において放送場所と中継場所が分かれていたこと、本当に頭の悪い人間(私は容赦なく言わせていただきます)が一部おり、彼らがパネリストの容姿など本編とは全く関係ないことに盛り上がっていたこと以外に特に不満点はない。「もう少し時間が短いほうがよかった」という方もいるだろうが、無限に時間を使える学生だからこそ、たっぷりの時間をこしらえて行えることというものがある。もちろん、今回の場合「時間的にグダグダになる」というリスクはあったのだが、二部前半を除き司会者である斉藤氏の卓越した働きによりそれは阻止されていた。一つ言ってしまえば、私は「学生による社会運動は可能か」という問題について学生であるという点を最大限に生かした議論が行われてもよかったのではないかと思うが……。すなわち、それは単純に「朝まで生テレビ」の学生版になるべきではなかった。――という話は、Twitter上の#masplaにおいてほかの人たちが議論しているし、ここでするとこの分量があまりにも多くなってしまうので、この辺で打ち切らせていただく。

意識の高い学生とは何か

もし世の中において学生を「意識の高い学生」と「それ以外」に分けるような分別方法があるとするならば、それが主になっている以上、そこには「意識の高い学生」を統括する何らかのモデルがあるといってよい。そして、そのモデルの「理念」を実行するのではなく、単純に敷かれたレールの上を歩くことだけを目的としている、寄生虫のような「意識の高い学生(笑)」が存在する――という具体例を、「「dig-na」の『失敗』から学ぶべきこと、教えるべきこと - Thirのノート」にて示した。

「意識の低い学生」という分類は、基本的に「高い学生」が意図的に想像した概念であり、我々はそれを素直に受け入れるべきではない。もちろん、「リア充」という存在が、我々が心の中にある嫉妬心を他者と共有するために生み出した「架空の存在」であるのと同じように、「意識の高い学生」という概念こそが意図的に想像された概念であるという人もいるだろう。もちろんそういう面もあるだろう。しかし「リア充」と呼ばれる人間の大多数は、PC文化の蔓延る我々のよく知るインターネットの世界には降りてきていない。「意識の高い学生」と「リア充」が明確に違う点は、id:mizchi氏が「僕は、「意識が高い学生」にNOと言う。或いは「若者」の時代の閉塞感について #maspla - mizchi log」で指摘したように、そこにある種の「情報強者」的な視点があることだろう。彼らはTwittermixiFacebookを操る。しかし我々は、まさにそのような部分に、具体的にはTwitterのbio欄から溢れ出る「万能感」「選民意識」に、「意識の高さ」を嗅ぎ取る。それは単なる羨望や嫉妬ではなく、すでに存在するロールモデルをなぞっているに過ぎない彼らに対する失笑が含まれている(そこでは、目的が何であるか、すなわち(笑)が付くかどうかは問題ではない。なぜなら、彼らが実際にどうなのかは、ウェブ上の情報からは全く想定が付かないのであるから)。

「意識が低い」という誤謬

したがって、彼らの言う「意識の低い学生」には、次のような意味が込められている――「(自分たちが理解できる範囲で)」と言う。第一部において、早稲田大学の「笑い飯」というサークルのメンバーの発言は、あまりの「意識の高さ」に、多くの人が度肝を抜かれたのではないか。また、YMT56のメンバーの、「徹底的に自分の立場を固持する」という姿勢もまた、その場の理念や「空気」を十分に察していないとできない芸当である。一般的に、「意識の高い学生」と呼ばれる人間は、そのような「大学生らしい頭の悪さ、バカっぽさを存分に引き出しているが、その方向においてはかなりの努力を行い、もしくはクオリティを維持しているもの」に対する理解を実は持っているものである。なぜなら、自分たちも「バカ」になるときは徹底的に「バカ」になるものだから。彼らの言う「意識の低い学生」は、「意識の高い学生」に対し、「お前らのやることなんか、いくらでも変な方向に模倣できるんだぜ」というステレオタイプを提供し、「高い学生」を笑いながら楽しみ、新たなネタを提供する。このように、彼らは実は共存関係にあり、むしろその「輪」の中から零れ落ちる大多数の人間こそが、「意識の高さ」を屈折した形で批判するのである。

なお、id:mizchi氏は「僕は、「意識が高い学生」にNOと言う。或いは「若者」の時代の閉塞感について #maspla - mizchi log」において、自らが「意識の高い学生」に対し「No」を突きつける理由について、このように記している。

表舞台に立つ人間が偉いのではない。壇上の人間は選ばれた人間ではない。
彼らはアジテーターとしていくらか優れた人間かもしれない。だがその無配慮な選民意識は、凡百な僕らを逆撫でする。恐らく僕らが、意図的に見落とされているものだとわかるから。

彼は、本質的に「意識の高い学生」と「意識の高い学生を模倣している人間」を区別していない。それは、我々の側から彼らを区別することができないこと以外に、彼らもまた共依存の関係にあることからきていると私は推測する。すなわち、前者は、あるロールモデルを作る。そして、そのロールモデルを後者が称賛し、コピーや真似を繰り広げる。それを見た人間は、また……という、再生産の仕組みがここには生きているのである。もちろん、前回の記事に書いた通り、この再生産には部分的に「バカなことをやっている学生」も関与している。これらはすべて一体となって共依存関係を有しており、その意味で、「マスタープラン」というイベント自体が、再生産モデルに乗った強者達がそれぞれのポジショニングを再確認し、更なる再生産へ向けて生産関係を加速させるための、ある種の「自己神話」ないし「偽史」を製作するためのひとつのイベントとなってしまっているのである。

おそらく「マスタープラン」全体が批判されるとき、そこにはこのような認識が存在している。そして人々が「最近の学生」というとき、そこにあるのは決まってこの再生産モデルである。だが大多数の人間はこのモデルへの参入を果たしていない。とはいえ、「マスタープラン」は、まさにこのような批判を許容する点に、批判と一体型となって称賛されるべき構造がここにはある。すなわち、我々は「マスタープラン」の持つ参入モデルを批判することで、彼らの「モデル」に対し、一つの立場を誇示したまま我々もまた参入することができるのである。おそらく、「マスタープラン」というイベントが可視化したものは、大多数のそのような存在の中で、彼らを外側から見つめる存在である。このようにしてモデルは拡大されていく。いつしか、その勢力はひとつの「代表」となり、「学生を代表する」という視点から見た場合、「マスタープラン」全体を批判する立場として「マスタープラン」に取り込まれた、そのようないびつな存在として、何かを表象する存在となる。目的なき学生団体の設立はこの構造に参入するために行われているが、予備校のごとく別のルートを提示することで、あるいは予測もしなかった拡張をモデルに対して行うことで、そのような団体の乱立を防ぐことはできるだろう。まさに学生維新と呼ばれる存在は、このモデルに対する正当な予備校的存在であったが、そうではないルートを、我々は彼らの批判者となることで、得ることが出来る。

もちろん、これは「声なき人間もまた声を上げることでその輪に取り込まれる」ということを示しているにすぎず、取り込まることが彼らの「懸念」をすべて解消するわけではない。示した通り、あくまでもこれは強者の理論であり、声なき人間には関係ないことだと思われるかもしれない。しかし、ウェブを味方につけることで、我々は声なき人間の声を登録し、あるいは我々の存在自体を見せつけることもできる。Twitterにおける書き込み、ソーシャルブックマークにおける登録、それらが一つのモデルに対する参入を形作る。

最終的にモデルに取り込まれてしまうなら、参入する必要なない――そう思うのは当然だ。しかし、モデルは常に変質する。圧倒的大多数ではない「意識の高い学生」が、あたかも学生の総意であるかのような働きをしていたように、新しいモデルを作るより、既存のモデルに入り込んでそれを徐々に侵食し、そこに存在する「総意」とみなされるものを変革したとき、それがあなたの勝利であり、我々の勝利である。そして、そのように、モデルに変革が起こることを証明して見せたとき、人々は真に「学生の総意など存在していない」という、重大な事実にようやくたどり着けるのである。