「誰かが犠牲にならなければならない」ものは、システムとして欠陥がある

原発に関して、「誰か(具体的には復旧に当たっている東電社員や自衛隊員)が命や健康を犠牲になれば、原発自体は全く危険なものではない」という言説が散見できる。即ち「危機的な状況に陥っても、復旧作業を行えば何も地域全体が危険にさらされることはない、もちろんその復旧作業には危険が伴うが」と。

しかし、そのような、「緊急時には誰かが危険を伴う作業をしなくてはならない、あるいは命を犠牲にする覚悟を持たなくてはならない」ようなシステムは、そもそもシステムとして自己犠牲を内在化しており、その点においてこのシステムは全体として欠陥である。ゆえに、現時点において(あくまでも現時点において)原発というものが、いざというときにそのような犠牲を必要とするのであれば、そのようなものは消えてしまえばいい。

そして犠牲者は英雄となり、英雄となるという事実があることで犠牲は社会において再び要請される。映画「ハルマゲドン」で描かれた光景は、決して美しいものでも、尊いものでも、その犠牲者の精神を崇めるべきものでもない。つらく、悲しく、それでいてその事実を隠蔽し、さらに崇高な対象にまで持ち上げてしまう、現代の作り出した悲惨な装置(システム)である。そのような存在を、私は決して肯定しない。

このような理論で行けば、確かにどのようなシステムも危険をはらんでいるということになってしまう。しかし物事には閾値というものがある。原子力発電所というのは、まさしく緊急時のその閾値がべらぼうに低い、つまり他の発電方法と比べた場合、緊急時には即ち「誰かが犠牲になる状況」が発生することを端的に示してしまう。かといって、一度始めてしまった原子力発電をここで一気にストップすることは、ほとんど不可能に近いであろう。だからこそ、今まさにここから、原子力に関する「冷静な」議論をスタートさせてほしいと、私は考える。相手を「左翼」「イデオローグ」とレッテルをつけて捨てるような真似はせず、あるいは原子力の代替可能性を厳密に見つめ、国民を巻き込んだ議論が行われることを期待したい。

なお、「対案がない」という主張に対しては、次のエントリが参考となる。
「対案についての思考」を禁止します - (元)登校拒否系
「対案を出せ」論法について - モジモジ君のブログ。みたいな。
「じゃあどうすればいいか」について - 猿虎日記(さるとらにっき)