我々はもう少しドコモに期待しても良いのではないか

本記事は「http://d.hatena.ne.jp/moto_maka/20110618/」に対するリプライである。但し、かなり雑多な内容をひとまとめにして記述するため、少々わかりにくいかもしれない。だが、たぐいまれなるiPhone/Apple厨である私も、そこから逆算するとどう考えてもドコモの次なる一手に期待するしかないこの現状を示すほうが先だと考え、アップロードすることにする。

そもそも「ガラパゴス」は蔑称ではない

近年、キャリア主導の垂直統合に代表される日本の携帯電話市場は「ガラパゴス」と揶揄されている。ワンセグおサイフケータイiモード等の機能を搭載するフィーチャーフォンは「ガラケー」と呼ばれ、この用語がつかわれ始めた当初は「日本の市場はガラパゴス諸島における生態系のように他国とは異なった進化を遂げている」というその事実だけを示す用語であったのに、いつのまにか「国際的に取り残された日本市場」のような意味が大きく取り上げられるにいたった。実際国際的に取り残されているのはその通りである。日本メーカーのフィーチャーフォンは他国ではほとんど売れず、海外市場ではサムスンノキアの一人勝ちが続いていた。そして先にあげた記事に書かれている通り、ドコモはこれらのソフトウェア資産をそのままスマートフォンに移植し、最終的にはガラケー上でできたことがすべてスマートフォン上で同様に動作することを目指している。

しかし我々は、この「ガラパゴス」性が、どのように他国で採用されるに至ったのかを、今になって説明することができる。まさに我々は、「iモード海外展開の失敗」と「iPhoneの成功」を、今真剣に見つめるべきではないのか。そして、私が思うに、先にあげた記事はその部分について多くのことを見落としているのである。

iモードの失敗

多くの方が知っている通り、iモードは海外展開に失敗している。失敗の原因については、wikipediaに書かれているようなことが一般的には使われる。

まず失敗の原因は日本国内とそれ以外の諸国でのケータイの取り扱いが主な理由である。日本では万能ケータイがもてはやされ、お財布ケータイなどの多機能化が進んだが、諸外国においてはケータイはあくまで「通話するためのもの・SMSを送受信するためのもの」であり、ケータイに対する使い方そのものが異なっていた。例えば日本国内では2011年現在においても自分のPCは持っておらずにケータイでメールからネットブラウズまで全て行う者が多数いるが、それ以外の国々ではメールやネットはPCで行うのが一般的であり、携帯でメールを使用するのはBlack&Berryなどを使用する一部のビジネスマンのみとなっていた。一般のユーザーが携帯でメールやネットブラウズを行うようになるのはiPhoneが登場してからである。しかしiPhoneはフルブラウズを可能としていること、各個人がもっているメールアドレスをそのまま使えること、といった「それまでの自宅で使用していたPC環境をそのまま表に持ち出して使用できる」を売り物にしたために大ヒットした。対してi-modeはあくまで「密閉された空間での簡略型HTML」という状況であり、ケータイでネットをする必要のない日本国外では全く受け入れられることはなかった。またバケットに対する拒否感も日本国外でi-modeが発展しなかった理由である。日本のようなパケホーダイのような仕組みがなかったため、「一体この通信で幾ら取られるのかわからない」という拒否感も発展を妨げた原因となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/imode

しかし、iPhoneをはじめとするスマートフォンが爆発的に普及した現在、「他国では携帯電話に対するイメージそのものが違っていた」という説明で終わらせてしまうのは、何か不自然な気がする。たとえば、2000年代前半にはTreoBlackberryが既に海外でも話題となっており、W-ZERO3が国内で投入される以前は「なぜ日本にはPDAはあってもスマートフォンはないのか」ということが盛んに愚痴られていたことを覚えている。つまり海外に高機能端末の需要がなかったというのは言いすぎなのだ。しかしこれらのスマートフォンはメモリの管理が必要で、パソコンを必要とし、何よりも揮発性メモリを採用していた(そして、wikipediaには「PC環境を持ち出せる点が好評だった」と書いてあるが、これらの理由により、それまで存在していたスマートフォンも、そもそも構造の制約上パソコンとの連携を前提としなくては使えなかったのである)。その点、日本のガラケーはそのすべての難点を克服していた。にもかかわらず、海外市場ではiモードはこれっぽっちも、TreoBlackberryに食い込むことなど一つもできやしなかった。それはなぜか。

理由は簡単である。キャリアを中心とした垂直統合のシステムが存在していなかったためだ。すなわち、キャリアがすべてをコントロールすることで、高機能な端末、すなわち売れるかどうかわからないメーカーにとって多大なリスクを持つ端末の開発が推奨され、消費者には補助金が出ることで端末料金を極力安くし、コンテンツもキャリアがサポートすることで誰にとっても安心の出来るものが揃えられ、さらにキャリアが主導してマネー・コントロールが行われることで、3Gネットワークに対する投資も適切に行われる――このようなシステムがなかったのだ。iモードは、iモードに対応したコンテンツがあって初めて機能する。しかし海外で展開するとなると、これらのコンテンツを最初から集めることは非常に難しく、一度普及しなくては各社は参入しない。コンテンツを参入させるためにはユーザー数が必要であるが、販売奨励金システムが使えないためにユーザー数をあらかじめ伸ばしておくこともできない。TreoBlackberryはリソースをコンピュータに依存するから良いものの、iモードはそれ自体で完結することを目指すため、そのようなことはできない。iPhoneAndroidが徐々に「PC離れ」しているのとは正反対だ。もっとも、これらは日本では「NTTドコモ」という巨大な信用があったから出来たのだということも忘れてはならないだろう。

iPhoneの成功

しかし、アップルの携帯電話事業参入により、このシステムが世界中で通用することは証明されてしまう。アップル社は端末とソフトウェア(もちろん、ここには当時のiTunes Music Storeによる課金システムを含む)を自分でコントロールし、AT&Tを丸め込むことで販売奨励金を手に入れ、また「iPod+iTunes」で培った莫大な信用力を担保として垂直統合システムを一気に作り上げた。初期のiPhoneには勝手アプリのシステムは存在しなかった(HTML+AJAXで作れ、というのが彼らの考えであった)が、のちにそれは撤回される。こうして、根本をなすプラットフォームはアップルがすべてを牛耳ることとなった。まさにここでは、NTTドコモが10年前に成し遂げたことを再現していることを再現しているといっても過言ではない。

課題から学ぶ

では、NTTドコモが2000年代に味わった辛酸といえばなんだろう。それは、垂直統合システムを解放せよという様々な圧力である。彼らは最終的に販売奨励金システムを変更し、MNPを承諾し、GoogleやYahooなど、勝手サイトを網羅する検索エンジンを受け入れた。「囲い込み」は依然と比べて弱体化した。同じことは、アップルやグーグルにも言えるかもしれない(もちろん、AndroidiOSに比べ自由度が高いというのは認めざるを得ないが)。その時に彼らが参考にするのはどこになるだろう。それは、まぎれもなく「今後数年間のドコモ」なのではないか。

では、ドコモはどのような手を打つだろう。私にそれを予測することはできないし、彼らが今何を考えているのかもわからない。しかし、執拗に「iPhoneはまだなのか」と問われ、「ガラケー機能はいらないわ」と言われ、「で、垂直統合システムを手放したあとどんな気持ち?ねえねえ(ry」と言われ続けている彼らが、まさかここ3年にわたって何も考えていないとは思わない。

先の記事において、ドコモに望むことは「iPhoneに負けない、日の丸スマートフォンを作って欲しい」だと書かれていた。しかしそれでは遅い。そしてそもそも、彼らは機種で儲けるのではなく、システムとして莫大な利益を得ていたのだ。iPhoneを獲得して、少しばかり契約者数が伸びたところで意味がないのである。
今、彼らが見つけたシステムは世界中を圧巻している。ドコモが次に放つシステムはどのようなものになるのだろうか。図らずも、我々は今LTEを目前に控えている。そして、LTEへの投資という側面を考慮すると、キャリアの取るべき戦略システムは「メーカーを主導とした垂直統合方式」とは異なる方向であるという事実に直面せざるを得ない(実際、AT&Tは2010年にパケット定額システムを廃止している)。

iPhoneを獲得すると、ドコモはシステムとして死んでしまう。そして、スマートフォン時代において、キャリアはどのように自らのシステムを維持していくべきなのか。これまでの文化をキャリアが生んできたという自負が彼らに残っているならば、そう簡単に「通信網のみ」の商売に切り替えはしないだろう。そして何よりも、日本にはキャリア以上に垂直統合に関するノウハウのある企業は存在しないのだ。後ろにはビューンやS-1を持つソフトバンクが迫っている。この状況下で、ドコモが「大企業病に陥り油断している」とは思いたくない。「世界」を受容しつつも「ガラパゴス」は「ガラパゴス」として発展させる、それが「ガラパゴス諸島」から学ぶべき知恵である。しかし、ガラパゴス性を保護することはできないことが、諸島とは大きく異なっている。

我々は「ガラケー」を再評価しなくてはならない。もちろん、彼らは同じ過ちを繰り返そうとしているようにも見える。たとえば、ハードを重視するあまりソフトウェアの完成度を軽視するという風潮は、ガラケーからガラスマへの流れの中でも一貫してみることができ、アップル社が「使い古されたハードと、最適化されたソフトウェア」で勝負しているのとは大違いだ。だが、2000年代に全盛期を迎えた「ガラケー」という文化は、決して「過ち」ではなかった。むしろそこには、時代を先取りしていたともいえる進化の種が隠されていたのだ。個人的な希望を言ってしまえば、ソフトバンクという「国際化」キャリアがいるのであれば(彼らは自分たちでの統合をするのではなく、海外の既存のプラットフォームや統合を認めたうえで、それを導入し、同時にさらに上のレイヤーでも勝負しようとする稀有なキャリアである)、それに対抗する形で徹底的なガラパゴス路線を追求してもよいのではないか。
来るLTE時代では、ほとんどすべてのキャリアで通信方式が統一される。おそらく、低価格化競争だけでは生き残ることはできないだろう。そして、たとえばソフトバンク等は、Androidで展開しているビューンなどのサービスを他社でも提供し始めるかもしれない。その時、ほかのキャリアが「インフラただ乗り」を唱えたところで、利便性を追求する消費者の目には「驕れるものは久しからず」にしか映らない。では、ドコモはどのように生き残るべきか?――答えは一つだろう。端末としての魅力ではなく、ドコモの提供するパッケージとして魅せるのだ。ドコモの「反撃」は、まさにそこから始まると、私は信じている。