「『スティーブ・ジョブズ』を忘れる」ことが我々に求められている

スティーブ・ジョブズの死は、それ自体として惜しむべき事態であるが、おそらく惜しむべきことはもう一つあるだろう。そして、残念ながらそのことについて記載されている文章は(私の観測の範囲では)ほとんど存在しない。ということで、私はスティーブ・ジョブズについてではなく、彼を取り巻く全体――いわゆる「アップル教」といわれるもの――について、少し書いておきたい。

「英雄化」は再帰的に行われる

我々は今まさに彼の英雄化・伝説化に現在進行形で直面しているが、これは(もちろん)結果としてiPodiPhoneiPadを成功させたという事態から再帰的に過去が再定義されているからこそ発生しているもので、そこから捨象された様々な「問題点」は依然として我々の前に存在しているはずである。故に、我々は「スティーブ・ジョブズ」という人物それ自体を賞賛するのではなく、彼の成し遂げた「偉業」については賞賛する一方で、その他の点についてはより精密に吟味する必要がある。
例えば、私が持っている『スティーブ・ジョブズ:偶像復活』という本では、「エレベーターの中で彼とばったり出くわしたとき、一言も会話してはならない。なぜならば不用意な発言は解雇を招くからである」ということが書かれている。このようなワンマン行為は、一般的に「成功すれば賞賛され、失敗すれば叩かれる」ものであるが、この一般論はここでも当てはまる。つまり賞賛で幕を閉じたのは、彼が最後に「成功」を納めたという事実が存在するからであり、彼自身の人格と行動、そして結果は、それぞれ分けて(そして連関する部分についてはその説明を加えた上で)考察されなくてはならない。

ジョブズ不在」を認めること

そして残念なことに、行為と人格を完全に誤解した人々は、「スティーブ・ジョブズ」という象徴が消えてしまった、ジョブズ不在のアップルに対し不安で不安で仕方がないようだ。しかしこれらは、二つの点で大きく間違っている。
一つ目に、行為と人格、結果を分けた場合、ジョブズの人格にとって最適な行為を選んだことによりこの結果がもたらされたのであって、その人格と行為が万人にとって最良の選択であるという意味において正しかったわけではない(例えば「経営者かくあるべし」という議論を成立させてはならない)。ゆえに、アップルの次の手は、「ジョブズならどうするか」という観点から評価されるべきではない。
おそらく、「彼ならどうするか」という視点は、消費者にとってもアップルにとっても不幸を産むのだ。アップルは、象徴に縛られることによって、「ジョブズ不在のアップル」なりの<自由>を表現することが出来なくなり、また消費者も彼を基点として物事を考えることによって、判断基準を誤る。そして残念なことに、これらは「ジョブズが不在であってもアップルは依然として革新的な端末を出し続けることが出来るのだという証明」を行っても消えることはない。彼らがアップルで有り続ける限り、スティーブ・ジョブズの幻影に「我々消費者」が縛られ続けるからだ。ゆえに、我々がいち早く彼の「特異性」を認め、それが「アップルにとっての普遍形ですらない」ことを認めなくてはならない。

そして二つ目が、ジョブズ自身が、人々が彼を常に想起し比較することを望んでいない点である。日本語の文章では翻訳がわかりにくくなっているが、原文では「死」について次のように述べている*1

It clears out the old to make way for the new. Right now the new is you, but someday not too long from now, you will gradually become the old and be cleared away.

「死とは新しき者に古き者が道を譲るために存在しており、新しき者もいつかは古き者になり消えていく存在である」と彼は主張している。彼は死によって道を譲ったのである。譲られた道を、いつまでも過去を掘り返して「ああいうふうにすべきなのだ」と主張することは、おそらく本人も望んでいない。今後、本田宗一郎松下幸之助と同じように、彼の成功や方法論を拡大解釈・哲学化・普遍化した「ビジネス書」が大量に出回るのだろうが、必ずしもそれが普遍形でないことは、必ず念頭に置かなくてはならないことであろう。
もちろん、「ジョブズ不在のアップル」という言い方は、それ自体ジョブズの象徴化を支持する言い方である。おそらく、消費者そしてアップルが「ジョブズ」という固有名を徐々に忘れること、それが(逆説的ながらも)彼の「偉業」を認める最も最適な方法ではないか。

彼は確かに革新の中心に居続け、人々を魅了し続けたのかもしれない。だからといって、彼がいなければ革新が行われないわけでもない。また、革新の方法として普遍的にそれが正しいわけでもない。しかし、彼はコモディティ市場においても我々は<何か>を常に求めていることを証明したのだ。その事実だけを認めること、そして彼だけが正しい方法ではないこと、それを「コア」として抜き出し、それだけを追い続けることによって、我々は世界に新しい商品を提供したり、あるいは魅了されることが出来る。それだけが残り、彼の固有名が忘れ去られることが、我々にとって一番幸せなのではないかと、私はそう考えている。

*1:原典を当たることはアップル原理主義者の使命である