日本のスタートアップ環境は「特殊」か?

最近の起業家は気持ち悪い、そしてそもそも起業家ではない。」を読んで。
大学入学以来、僕は意外と多くの「学生起業家」と呼ばれる部類の人間と会ってきた。そして、実際のところ米国における現状がいかなるものであるかはほとんど知らないのだが、国内の状況についてはある程度経験的に答えを導き出せると考えている。

日本のスタートアップ環境は、企業の評価を人物のみで行う。その人が有名であるか否かでだ。

一言で言ってしまえば「認知バイアスのせい」なのだが、もうすこしきちんと説明してみよう。はっきり言ってしまえば、こんなのはインターネット上でしか起業家を見たことがないからこそ言うことの出来る戯言である。おそらくこの記事では「スタートアップ環境」というものが具体的に明示している対象が「ソーシャル・メディアにおいてどの程度の速度で(あるいは範囲に)新規プロダクトのリリースが知れ渡るか」ということのみであり、一般的にスタートアップにおいて必要とされる「人材」と「資金」についてはほとんど明示されていない。もしかしたら、氏はこの世の中に「面白いウェブサービスを個人で作れば、有名人がやってきてサクサクと資金や人材の面でサポートをしてくれる」という淡い幻想を抱いているのかもしれないが、残念ながら日本にはそのような仕組みはほとんどないといって良い。本当に起業し事業を大きくしていこうと思えば、初期投資用の資金や人材を入れることは不可欠であり、必然的に「声の大きい」(「”この人はすごそうだし、何かやるぞ”と思わせる人」)人間が成功に近づくことになる。

例えば、資金をベンチャー・キャピタルに借りに行くとしよう。何人かのプロに自分の計画を見てもらうことになるが、そのときにはアイデアの素晴らしさと同時に計画立案の能力やスピーチ能力が多分に図られることとなる。もちろん、アイデアの素晴らしさだけを起業家に要請し、それが素晴らしければ計画立案やプレゼン・スピーチについてはVC側で人材を提供するというのが望ましい状態ではあるが、残念ながらこの国ではそのような支援の仕組みはほとんど存在せず、基本的にその人物個人に求めることとなる。悪く言ってしまえば、口が達者な人間でなければ、そもそも「事業を興す」ということは難しいのだ。

氏は

日本のスタートアップ環境は、薄暗い部屋でコードを書き続け、未来を作っている薄汚いギークよりも、
世間の空気に媚びへつらい、自分を偽装するのがうまいタレントを欲している。

と言っている。ではその想定されている「薄汚い部屋でコードを書き続けるギーク」というのは、はたして米国においては多数派を占める存在であっただろうか。例えば氏が挙げているザッカーバーグは、映画の中では一貫してそのような人物として描かれていただろうか。実際のところ、彼もまた、ショーン・パーカーに「自分を偽装」していたのではないか。あるいは、たとえそうではないとしても、明らかに「自分を偽装」していた存在であるショーン・パーカーなしに、事業の拡大は円滑に行われていただろうか。私はそうは思わない。

インターネットの世界は日進月歩であり、今日サービスをリリースしなければ明日別の人間が同じサービスをリリースしてしまう可能性を秘めている。だからこそプログラミング・資金調達・人材調達の全ての面において「スピード」が一貫して求められており、無名の一人がそれを行うためには、自分を偽装してよく見せるしかないのだ。そしてそれは、成功すれば「偽装ではなかった」と言われ、失敗すれば「偽装であった」と呼ばれる。ただそれだけのことである。

最近の学生起業家が気持ち悪いというのはまさに同意である。しかしそれは、気持ち悪いという心証を作り出す様々な属性がなければ必要な資材を手に入れることが出来ないという状況から来ているものであり、そもそも彼が述べるような「真摯で真面目な起業家」というのは、構造からして起業することも出来なければバックアップをする価値すらないのだ。誰が学生起業家をバックアップするのか。ベンチャー・キャピタルやインキュベータがほとんど存在しない日本においては、必然的に「まず目立つ」ことが重要となる。インターネット上でのみ「声の大きい」人間も、確かにいるだろう。しかし、インターネットですら声が大きくないような現状では、人々には見向きもされないのだ。インターネット上で有名になると言うことがある種の登竜門となっており、それを「クリア」出来ない人間が素晴らしいプロダクトを作れるなんて、実際に学生起業家達を相手にするような層の人間は、到底思っていないのである。それが拡大再生産されているのが、現在の姿であると言うことが出来るだろう。


日本における「学生起業」のほとんどは受注や委託、下請けである。学生が起業することによって、かつて大企業で新卒一年目の社員がやっていたようなことが、より低価格に外部へアウトソーシングされるだけであり、基本的な人材のピラミッド構造においてはほとんど変化はない。しかし彼らも、受注案件に好きで甘んじているわけではない。何がモチベーションとなるかと言えば、それは経営トップの「カリスマ」であり、計画であり、未来への欲望である。「世界を変える」と言った方が能力や意欲に溢れた人間が集まるのであれば、そんな気持ちがなくとも「世界を変える」という。そして氏のいうスティーブ・ジョブズ率いるアップルも、あの有名な「Think Different」キャンペーンで言っているではないか。「彼らはクレイジーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから」と。自分が世界を変えられると信じることの出来ない者に、優秀な人材は集まらない。

おそらく日本において「起業家」を気持ち悪く無くさせる方法というのは、秀逸なアイデアを持っているものの起業に結びついていない者、例えば計画立案能力や資金調達能力を持たない者や、そもそも意欲のない者をどのようにバックアップしていくか、という点にある。例えばアイデアのみを一定額で買い取るようなモデルや、VCが企画や調達について全面的に協力することによって、そういったことは可能となるだろう。しかし、そのような状況を作るには、起業において辛酸をなめたものの最終的に成功した人間の強力が不可欠である。だが、スピードが求められるインターネットビジネスにおいて、強烈なカリスマ的魅力を持った人物がいなければ、いったいどのようにして会社が運営されていくというのだろう? ある意味、氏のような幻想を打ち砕く最も簡単な方法は、成功した外資ベンチャーでも未だにある面では「タレント」を起用しているという事実――Googleは未だに「Google」ブランドに縋り、マイクロソフトは「Windows」というブランドネームに対し「世界的な事業戦略においてまでも」未だに依存しているという端的な事実――を突きつけるだけで良いのかもしれない。

※今回は大変にポジティブな書き方をしましたが、これまでに「理念なき」起業を何度か批判しており、現在においても理念をソーシャルメディアにおける意識高揚において代替するあり方については疑問を感じています。以下の記事をお読み下さい。