Googleが変える秘匿情報の概念

Googleは、それまで偏在していたすべての情報をひとつの基盤上に位置づけることで、情報、とりわけ個人情報に対するわれわれの認識を根底から変えようとしているように思えます。我々は今、個人情報とそうでない情報の境目がどこに存在しているのか知らないことに気づかされ、あるいは我々が今まで個人情報であると思っているものが、Googleの秩序のうちに再編成されている姿を見ているのです。Googleは、個人が秘匿する情報の秘匿性をより高め、同時に世界中に自らの情報網を張ることで、そこから零れ落ちる情報から一切の秘匿性を剥ぎ取ります。もちろんこれは便利な面もありますが、同時に恐ろしいことでもあるのです。気がつくとそこには「我々のもの」はひとつもなくなっているのですから。

また、Googleはひとつの民間企業です。全知全霊の神ではありませんし、オープンな存在でもなく、ましてやネトウヨ的な価値観において事物に存在正当性を与えるとされる「国連」や「国家」ですらありません。私利私欲の追求を許される私企業です。つまり、Googleは我々の持つ「個人性」「情報」「秘匿」といった全ての価値を一度に再構成し、社会を彼らの従属下に置こうとしておりますが、その正当性は、(当然のことながら)Googleの持つ「便利さ」を盲目的に信仰する大多数の人々の存在によってしか担保されていないのです。

我々は、Googleがもたらした「便利さ」という表層の上で遊んでいるようにみえて、実は遊ばされています。言い換えれば、Googleが作り出すイデオロギーの大きな転換の前で、それに対し抵抗することはおろか、彼らが作り出したすべてのアプリケーションに、統一的にそれが具現化されていることにすら無自覚なのです。

彼らが「無邪気さ」ゆえに作り出した「歴史の繰り返し」の前に、我々は我々が失笑する「過去の人間」と全く同一な態度をとっています。「ああそんなことわかっているよ。だからなんだっていうんだい」と。ああ、まさしくその無関心を装った肯定が全てを狂わせるというのに……。それが招く破滅的な結末とは、なんでしょう? ……もっとも、それは避けられないことなのかもしれませんが。

Googleの暴走を止めろ、とはいいません。ただ、我々がGoogleを拒否すれば、それで終わるのです。なのに、「Googleを拒否する理由がない」と言い出す人が出るのは、大変不思議なことです。