デジタルネイティブという「誤解」

デジタルネイティブという言葉が生まれて何年が経っただろうか。最近、様々な事柄が「デジタルネイティブ」(本記事では、とくに「ネオ・デジタルネイティブ」と呼ばれる階層に焦点を当てている)の一言によって美化されてしまっているのではないか、と感じることがある。直近で言えば、「NewsWalker(ニュースウォーカー)|総合エンタメ情報サイト」という記事に代表されるように……。

正直この手の言葉の意味遷移、つまり「デジタルネイティブという言葉は昔はこういう風に使われていたのに…」ということを述べても意味がない。それは、これらの言葉は意味が同定されないことに意味があること、逆にそのことが「デジタルネイティブ」という言葉によって美化されている出来事を、よりその方向に加速させてしまいかねないためである。また、この記事では根本的な「デジタルネイティブ」批判をすることはないし、私は「デジタルネイティブ」という現象自体を批判する気はない。若者をとりまく環境はその人物の年代によって大きく変わってくるのは当然であり、その環境要因によって世代の性質が変化するのも当然であるからだ。私が強く心配するのは、「デジタルネイティブ」という言葉があまりにも好意的な意味を持ちすぎていること、それもほかのすべての弱点を帳消しするマジックワードのごとく使用されている点である。とはいえ、例えば「iPadで勉強するのはゲーム的でナンセンスだ」等というつもりはまったくない。デジタル化、デジタルネイティブは時代の課題でも流行でもなく方向である。私が批判したいのは、彼らの中で「あたりまえ」であることを「すごい!」といってもてはやす、その周りの人間たちの心性である。

簡潔にいおう。我々は、iPodiPhoneTwittermixiなどを活用している人物をそのまま「デジタルネイティブ」と名付けもてはやしていいのだろうか。確かにその中で、時代の先を行くような発想をする人物は出てくるだろうし、そのような人物こそ賞賛されるべきなのは間違いない。しかし、だ。「デジタルネイティブ」世代のほとんどは受動的に環境を享受しているだけであって、そのような人物は本当に少数である。このことは、いつの時代にも変わらぬ原則である。たしかに、デジタルネイティブ世代が成長するに従って育った別の環境要因(例えば起業が社会的な価値を持って認められるようになったなど)が作用したために、若干の変化はあったかもしれないが、あったといっても誤差程度ではないか。我々は、彼らの環境が我々のそれとあまりにも違いすぎているがために、単に違う環境を背負っているというその一点において、彼らを賞賛(もちろん否定も)してしまってはいないか。

環境を最大限生かして生きることは長所でもあるが、環境が目紛しく変わる現代においては大きな弱点にもなりうる。大多数の彼らのように、今いる環境を享受することに終止するようでは、その未来も果てがあるのではないか。私はそう思う。