悲劇の比較は何も生みませんが -悲劇経験の“逆”利用
はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):大学4年生の就職内定「取り消し」相次ぐ、金融危機で - 関西ニュース一般を読んで思ったのは、「ああ、これはまた悲劇比較の応酬が始まるのだなあ」ということでした。まあ、とても簡単かつ単純、短い話なので、少々。
「第二就職氷河期」については、団塊世代の大量定年退職が終わる2009年採用あたりから新卒採用人数を企業が絞り始める、という予測が以前から存在していましたので、今回の「リーマン・ショック」から始まる一連の構造不況がどのような方向に転ぶか否かには関係なく、今後一部の業種において「新卒」が厳しくなっていくのは確かなことです。
その際に、本来「助け」となるべきいわゆる「就職氷河期世代」「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる人々の一部が、「いや、俺の方が苦しかった。だからお前も〜」という論理を働かせるのは、本当に残念なことです。
このような論理を働かせるのは何も彼らだけではありません。中高年から老年者に至るまで、様々なところに「自分たちのほうが厳しかったのだから、お前たちも」という論理を働かせる人がいます。例えば私の周りには自ら毎週数十時間もアルバイトをしなければ到底生活していけないような生活をしている人がいますが、彼らは親戚や両親の世代に「私たちの頃は皆苦学していた。君たちは贅沢すぎる」と言われるそうです。老年者が「戦争があった頃は〜」と語るのもこれに加えて良いかもしれません。
不幸な体験の比較というのは、ある種の優越感を生むのだろうと思います。しかしそれは、何も解決しません。むしろ悲惨な状態が一般的な状態であるということを肯定する行動であり、自分たちの「例外」的な経験は、実は「例外」ではなく「正常」な状態であったのだと再認識する行為です。就職は円滑かつ流動的に行われるべきであり、苦学することそれ自体が是とされるべきではなく、戦争による苦痛が正当化されるべき理由はどこにもありません。
しかし彼らは、「これより悲惨な状態は過去にあった」とその体験を持ちだし、「二度とあってはならない」という「例外」として扱うのではなく、「こういうことはあったのだから今後も」という常態として扱います。その行為はやがて社会全体が「あれが普通だったのだ。今が贅沢すぎる」という認識をもつにいたり、その結果、「学費はもっとあげていいだろう」とか「一年くらい就活出来なくても良いだろう」とかそういう話になってきてしまうわけです。
「今が贅沢すぎる」。人を黙らす格好の言葉ですが、では、それは本当に贅沢な状態なのでしょうか?過去を都合の良いように修正し、利用しているに過ぎないのではないでしょうか。そもそも人間は「贅沢」出来る状態にあるべきであり、社会や国家はそれを支える存在でなくては存在する必要性がありません。満足を得られる状態に達していない全ての人間には幸福を追求する権利があるというのに、一体あなたはなにをしているのですか?悲劇経験は、そのように使われるべき代物なのでしょうか?
次の時代を乗り越えるためには、ある種の人々が明確に意思の方向性を変更していくことが必要なように思えます。
……あれ、半年前にもこんな話あったんじゃね?と思ったら関連するものがありました。一読を。
アレゴリー化する悲惨体験 - 過ぎ去ろうとしない過去