「意識の高い学生」とは何か、その意義と批判 #maspla

※エントリを二つ書きましたが、ここに統合し以前のものは削除いたしました。

3月6日日曜日に、新宿ロフトプラスワンと高田馬場10°Cafeにおいて、「マスタープラン」と題された学生の学生による「朝まで生テレビ」が行われた。第一部は友人の家でぼーっと眺めていたのだが、第二部については面白そうなので高田馬場まで出向いて、そのまま「第三部」、すなわち単なる飲み会にまで参加して帰って行った。おそらく、「マスタープラン」という存在に対して否定的な価値観を持ってその場に臨み、かつある程度ほかの参加者とも会話を交わした人間は僕一人だけだったのではないかと思う。中には僕の存在に気分を害したパネリストもいただろう。

本原稿においては、主に「マスタープラン」という催しにかこつけて僕の「意識の高い学生」論を披露することになる。よって、「マスタープラン」の出来不出来に関する議論を求めている方にとっては、少々味気ないかもしれない。補足しておけば、「マスタープラン」は第二部において放送場所と中継場所が分かれていたこと、本当に頭の悪い人間(私は容赦なく言わせていただきます)が一部おり、彼らがパネリストの容姿など本編とは全く関係ないことに盛り上がっていたこと以外に特に不満点はない。「もう少し時間が短いほうがよかった」という方もいるだろうが、無限に時間を使える学生だからこそ、たっぷりの時間をこしらえて行えることというものがある。もちろん、今回の場合「時間的にグダグダになる」というリスクはあったのだが、二部前半を除き司会者である斉藤氏の卓越した働きによりそれは阻止されていた。一つ言ってしまえば、私は「学生による社会運動は可能か」という問題について学生であるという点を最大限に生かした議論が行われてもよかったのではないかと思うが……。すなわち、それは単純に「朝まで生テレビ」の学生版になるべきではなかった。――という話は、Twitter上の#masplaにおいてほかの人たちが議論しているし、ここでするとこの分量があまりにも多くなってしまうので、この辺で打ち切らせていただく。

意識の高い学生とは何か

もし世の中において学生を「意識の高い学生」と「それ以外」に分けるような分別方法があるとするならば、それが主になっている以上、そこには「意識の高い学生」を統括する何らかのモデルがあるといってよい。そして、そのモデルの「理念」を実行するのではなく、単純に敷かれたレールの上を歩くことだけを目的としている、寄生虫のような「意識の高い学生(笑)」が存在する――という具体例を、「「dig-na」の『失敗』から学ぶべきこと、教えるべきこと - Thirのノート」にて示した。

「意識の低い学生」という分類は、基本的に「高い学生」が意図的に想像した概念であり、我々はそれを素直に受け入れるべきではない。もちろん、「リア充」という存在が、我々が心の中にある嫉妬心を他者と共有するために生み出した「架空の存在」であるのと同じように、「意識の高い学生」という概念こそが意図的に想像された概念であるという人もいるだろう。もちろんそういう面もあるだろう。しかし「リア充」と呼ばれる人間の大多数は、PC文化の蔓延る我々のよく知るインターネットの世界には降りてきていない。「意識の高い学生」と「リア充」が明確に違う点は、id:mizchi氏が「僕は、「意識が高い学生」にNOと言う。或いは「若者」の時代の閉塞感について #maspla - mizchi log」で指摘したように、そこにある種の「情報強者」的な視点があることだろう。彼らはTwittermixiFacebookを操る。しかし我々は、まさにそのような部分に、具体的にはTwitterのbio欄から溢れ出る「万能感」「選民意識」に、「意識の高さ」を嗅ぎ取る。それは単なる羨望や嫉妬ではなく、すでに存在するロールモデルをなぞっているに過ぎない彼らに対する失笑が含まれている(そこでは、目的が何であるか、すなわち(笑)が付くかどうかは問題ではない。なぜなら、彼らが実際にどうなのかは、ウェブ上の情報からは全く想定が付かないのであるから)。

「意識が低い」という誤謬

したがって、彼らの言う「意識の低い学生」には、次のような意味が込められている――「(自分たちが理解できる範囲で)」と言う。第一部において、早稲田大学の「笑い飯」というサークルのメンバーの発言は、あまりの「意識の高さ」に、多くの人が度肝を抜かれたのではないか。また、YMT56のメンバーの、「徹底的に自分の立場を固持する」という姿勢もまた、その場の理念や「空気」を十分に察していないとできない芸当である。一般的に、「意識の高い学生」と呼ばれる人間は、そのような「大学生らしい頭の悪さ、バカっぽさを存分に引き出しているが、その方向においてはかなりの努力を行い、もしくはクオリティを維持しているもの」に対する理解を実は持っているものである。なぜなら、自分たちも「バカ」になるときは徹底的に「バカ」になるものだから。彼らの言う「意識の低い学生」は、「意識の高い学生」に対し、「お前らのやることなんか、いくらでも変な方向に模倣できるんだぜ」というステレオタイプを提供し、「高い学生」を笑いながら楽しみ、新たなネタを提供する。このように、彼らは実は共存関係にあり、むしろその「輪」の中から零れ落ちる大多数の人間こそが、「意識の高さ」を屈折した形で批判するのである。

なお、id:mizchi氏は「僕は、「意識が高い学生」にNOと言う。或いは「若者」の時代の閉塞感について #maspla - mizchi log」において、自らが「意識の高い学生」に対し「No」を突きつける理由について、このように記している。

表舞台に立つ人間が偉いのではない。壇上の人間は選ばれた人間ではない。
彼らはアジテーターとしていくらか優れた人間かもしれない。だがその無配慮な選民意識は、凡百な僕らを逆撫でする。恐らく僕らが、意図的に見落とされているものだとわかるから。

彼は、本質的に「意識の高い学生」と「意識の高い学生を模倣している人間」を区別していない。それは、我々の側から彼らを区別することができないこと以外に、彼らもまた共依存の関係にあることからきていると私は推測する。すなわち、前者は、あるロールモデルを作る。そして、そのロールモデルを後者が称賛し、コピーや真似を繰り広げる。それを見た人間は、また……という、再生産の仕組みがここには生きているのである。もちろん、前回の記事に書いた通り、この再生産には部分的に「バカなことをやっている学生」も関与している。これらはすべて一体となって共依存関係を有しており、その意味で、「マスタープラン」というイベント自体が、再生産モデルに乗った強者達がそれぞれのポジショニングを再確認し、更なる再生産へ向けて生産関係を加速させるための、ある種の「自己神話」ないし「偽史」を製作するためのひとつのイベントとなってしまっているのである。

おそらく「マスタープラン」全体が批判されるとき、そこにはこのような認識が存在している。そして人々が「最近の学生」というとき、そこにあるのは決まってこの再生産モデルである。だが大多数の人間はこのモデルへの参入を果たしていない。とはいえ、「マスタープラン」は、まさにこのような批判を許容する点に、批判と一体型となって称賛されるべき構造がここにはある。すなわち、我々は「マスタープラン」の持つ参入モデルを批判することで、彼らの「モデル」に対し、一つの立場を誇示したまま我々もまた参入することができるのである。おそらく、「マスタープラン」というイベントが可視化したものは、大多数のそのような存在の中で、彼らを外側から見つめる存在である。このようにしてモデルは拡大されていく。いつしか、その勢力はひとつの「代表」となり、「学生を代表する」という視点から見た場合、「マスタープラン」全体を批判する立場として「マスタープラン」に取り込まれた、そのようないびつな存在として、何かを表象する存在となる。目的なき学生団体の設立はこの構造に参入するために行われているが、予備校のごとく別のルートを提示することで、あるいは予測もしなかった拡張をモデルに対して行うことで、そのような団体の乱立を防ぐことはできるだろう。まさに学生維新と呼ばれる存在は、このモデルに対する正当な予備校的存在であったが、そうではないルートを、我々は彼らの批判者となることで、得ることが出来る。

もちろん、これは「声なき人間もまた声を上げることでその輪に取り込まれる」ということを示しているにすぎず、取り込まることが彼らの「懸念」をすべて解消するわけではない。示した通り、あくまでもこれは強者の理論であり、声なき人間には関係ないことだと思われるかもしれない。しかし、ウェブを味方につけることで、我々は声なき人間の声を登録し、あるいは我々の存在自体を見せつけることもできる。Twitterにおける書き込み、ソーシャルブックマークにおける登録、それらが一つのモデルに対する参入を形作る。

最終的にモデルに取り込まれてしまうなら、参入する必要なない――そう思うのは当然だ。しかし、モデルは常に変質する。圧倒的大多数ではない「意識の高い学生」が、あたかも学生の総意であるかのような働きをしていたように、新しいモデルを作るより、既存のモデルに入り込んでそれを徐々に侵食し、そこに存在する「総意」とみなされるものを変革したとき、それがあなたの勝利であり、我々の勝利である。そして、そのように、モデルに変革が起こることを証明して見せたとき、人々は真に「学生の総意など存在していない」という、重大な事実にようやくたどり着けるのである。

Facebookは万能ではない

最近、よく「GoogleFacebookに負けるのだ」という論旨のエントリーを見かけることが多いのだが、私はそのようなことはないと思っている。だいたい、Googleが目的とした「検索」は、Facebookの殺す「検索」とは別物であるのだ。そして我々は、薄々その事実に気が付いているのである。

Googleは、様々な情報を収集し、それを独自のアルゴリズムによって重率をつけ順列化することで成功を収めてきた企業である。しかしこれらは、そもそも我々が情報を何も有していない状態から何か情報を得る場合に特化したものであって、それまでも「すでに何らかの意識を持っている場合、その意識に反する情報は検索で引っかかったとしても目には入らない」(つまり、検索は偏見を強化する)ということは幾度となく言われていた。Facebookが侵入する「検索」とは、まさにそのようなものである。すなわち、彼らが手中に収めようとしているのは、「すでに何らかの情報を持っており、それについてさらなる信頼性や正確性、つまり内容以外の『情報』を入手したい場合」に用いられる「検索」であって、「内容」を得るためのファーストコンタクトとしての検索ではない。

しかし、それでも「検索はFacebookに置き換わる、なぜなら情報がすべてFacebookに書かれるようになり、Googleのクロールできない場所に重要な情報が置かれるようになるのだ」と主張する人々もいる。といっても、Facebookというのは恐ろしいウェブサービスではない。単純に、TwitterSNSソーシャルブックマーク人力検索、ライブアップデートが行われる連絡帳などが美しい関連のもとに整理され結ばれたウェブサービスである。よって、そこにはウェブのすべてが複雑に絡み合っており、もちろんその重要な要素の一つであるGoogle的な「検索」概念がそこから消えることはおそらくない。Facebook上の情報がいくら優れていようと、その検索においてはGoogle的な手法が最も適している状態が変化することはなく、その技術を一から開発するよりはGoogleから借り入れたほうが手っ取り早く安く済むことも明白である。なお、「いいね!」の数によって掲載順序を入れ替える検索エンジンシステムも存在するが、それは単なるソーシャルブックマーク的なシステムが一般化しただけであり、これらの技術は検索技術と併用されなければ何のメリットもなく(大体Firefox拡張などで昔から実現できるし、それによってGoogleが優秀である事実も再確認できるだろう)また我々は「そもそも検索をしないで、『いいね!』をたどっていたら自然と情報に行き着いた」のような状態が常に成立するわけではないことを、つい先日delciousの失敗から学んだばかりである。

さらに言えば、「検索」という「行為」自体が消えることもないだろう。返ってくる情報が何であれ、検索してその情報を得たのだという、「情報を自ら取捨選択し、自分はリテラシーを発揮したのだ」という感覚は、もはや我々の体の深くにまでしみついてる。禁煙が難しいのと同様に、我々は検索によって得られるそのような快感をやすやすと捨てることはできないのだ。

以上が、私がGoogleFacebookに負けるということははっきり言って「ありえない」と考える理由である。彼らは「検索」という概念をうまく自分たちに都合のいいように操作しており、その概念を「人々」の側に取り戻そうとしているのが現在の状態である。しかし、その概念が根本的に揺らぐということはなく、ましてやGoogleのもたらした検索の価値観は、最悪でも「相対化」されるだけで、「忘却」されるということはありえない。これらの考察は、「衰退論」が根拠とする滞在時間やアクセス数の問題となんら齟齬を起こさない。そう、衰退論者達は、彼らが批判するGoogleと同じような「操作」を、自らのフィールドにおいても行っているのである。

(数か月前にhttp://twitter.com/thirjpに書いたものをボリュームアップして再掲)

生活保護は今のままでいい

テレ朝が生活保護を強烈に非難【働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww】
『生活保護受給者は人生の勝ち組』 支給金でギャンブル三昧、働く必要がない:ニュー速VIPブログ(`・ω・´)
2ちゃんねるTwitter等を少し見れば明らかなように、我々が思う以上に多くの人間が、「生活保護は『改革』した方が良い」と訴えている。彼らは決まって「生活保護は弱者救済のためではなく不正受給の温床になっており、またケースワーカーや役所の対応の悪さから本当に必要な人に渡っていない」という主張から、転じて「生活保護は贅沢だ、今すぐ廃止するか現物支給に切り替えるべきだ」という事を平気で口走ってしまう。もちろん、今の生活保護に問題がないとは言わない。だが、役所の対応や不正受給の根絶を訴えるのと、「現物支給で良い」と言い切ってしまうことの間には、想像以上に巨大な溝が存在する。つまり前者は生活保護という基盤を認めた上で、その制度改革を論じているのに対し、後者は公的扶助政策の実現である「生活保護」について、その理念の根幹をまさに切り崩そうとしているのである。しかし、私は生活保護という、他の政策に比べて広く知れ渡っている本政策を、むしろ弱者が堂々と権利を主張するための一つの道具として利用するのが望ましいと考えている。どういうことか。

生活保護がこれほどまでにたたかれる要因の一つは、生活保護があまりにも「直接的」で、かつ「目に見えやすい」政策であるからであろう。世の中には、これほどまでに明確に弱者を救済する手立てが存在していない。だから、自らの生活に不満を抱く者は、そこにどのような不満があれども、直接的に金銭の授受が発生し、かつ万人に開かれていることを謳っている生活保護というシステムをとりあえず叩いてみるのである。気持ちは分かる。自分たちは苦労している。なのにあいつらは楽をして金をもらっている。これは不公平ではないか。例えば、そこに劣悪な労働環境があったり、非正規雇用が常態化している実態があったとしても、その解決を求めるのではなく、分かりやすい不満のはけ口として、まず「生活保護」が選ばれているのである。

必要なのは発想の転換である。自分より受給者が楽をしている、だから受給者は云々、という論理を求めるのではなく、受給者よりも苦労している自分に対しても、状況を改善するような手立てがさしのべられても良いのではないか、と。憲法において、我々は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があるとされ、それを実際の社会制度として組み込んだものが生活保護である。ゆえに、生活保護というものは、真に「健康で文化的な最低限度の生活」を保証するものではなくてはならない。すなわち、公的に、我々は「生活保護以下の生活は存在しない」と認識するべきであり、その「生活保護の水準」こそが、まさに我々が守らなくてはならない「最悪」の水準なのであると認識することが重要なのだ。近年問題となっているワーキング・プアや(若年)ホームレスは、明らかに「最低限度の生活」を営んでいない。ここで必要なのは、生活保護という「最低限度」を引き下げ、我々の意識レベルで「このレベルは最低限度ではなく、むしろ裕福な部類に入る」と認識を改めることではなく、断固として「生活保護は最低限度だ」と主張し、その水準以下の生活を行う者を救済する政策をもとめることである。

言い換えれば、生活保護を取り巻くヘイトクライムには、政府の政策として、生活保護以外の所得移転システムが十分に配備されていない現状が見え隠れしている。我々は、彼らの主張を鵜呑みにして、「それでは、生活保護をなくせばよいのか」と考えるべきではない。生活保護の撤廃は、即座に「最低水準」の撤廃を意味し、我々の生活水準は瞬く間に下がっていくだろう。それは、人々の間に「生活保護以下の水準には下げないよう努力しよう」という意識が消失することを意味するのだから。真に彼らの意を汲むのであれば、生活保護以外の所得移転システムの配備、あるいは十分な水準での最低時給の設定や、アルバイトやパートタイムで生活をまかなういわゆる「フリーター」、派遣社員の地位向上に努めるべきであろう。

あくまでも、生活保護は「最低限度」を保障するものである。彼らは贅沢をしているから最低限度を下げよう、ではない。彼らの生活が最低なら俺たちの生活ももっと保障しろ、が正しい。内心、マスメディアや政府関係者は生活保護が糾弾されている実態を見てほくそ笑んでいるのではないか。「ああ、弱者にはこれからも弱者でいてもらおう」と。冗談じゃない。「生活保護は最低限度だ」。これが認識の転換点となり、認識は世論を変えていく力さえ秘めている。

「dig-na」の『失敗』から学ぶべきこと、教えるべきこと

反省した方がいい。もちろん、それは@umeken氏のことではない。氏を誑かした、起業を無条件に礼賛しているようにみえる学生や大人たちのことである。
事の経緯を一応説明しておく。「スーパー高校生」であり、「デジタルネイティブ世代の筆頭株」であった@umeken氏が、仲間の高校生を誘って起業することになった。ほどなくして社名は「dig-na」に決定され、昨日、「株式会社ディグナ - 想像を、創造に。」が公開された。しかし、その内容がスパムまがいの行為である点や、あるいはサイトデザインの点からTwitter上で大きな批判を浴びた、ということである。

会社を設立するうえで、イメージや評判の低下は、由々しき事態である。インターネットをメインに営業活動を行う企業にとって、そこでのイメージダウンは業績の低下と瞬時に結びつく。いわば彼は、彼の愛したTwitterによって出鼻をくじかられた形だ。これを失敗といわずして何と呼ぼうか。しかし、その責任が彼と彼の仲間だけにあるとは思わない。Twitterによって敷衍した自己、つまり彼個人の「クラスタ」の性格に、失敗の原因は大きく依存している。

正直、私は個々の批判内容についてはどうでもいいと思っている。例えば、サイトデザインに関しては、悪質な情報商材サイトとの相違が指摘され、誤解を招くとのツイートが散見出来たが、情報商材サイトや楽天・Yahooオークションなどの激安経販売店がなぜこれほどまでに似通ったデザインを採用しているのか、すなわちそのようなデザインには一定の効果があってこそ使用されているのではないか、ということを考えれば、「Twitterマーケティング」のような、ある種「そういうのに疎い人」を対象としたビジネスを行うに当たっては、むしろ効果的な面もあるのではないか、と考えた。もちろん、「デジタルネイティブ」世代が、「非デジタルネイティブ」世代を騙すような構図になっていることに関しては、多くの批判を浴びることは間違いない。しかし、そのようなビジネスは、SEOSEM対策に見られる悪質さとさほど代わりはなく、むしろインターネットを基盤として発生する新たなビジネスはどこか「怪しさ」を放っていることが多いことも考慮すれば、倫理的な側面以上に批判される筋合いはないのではないか、と私は考える。別に、彼には最初からなにか画期的なアイデアがあって起業しようと考えているような側面はなかったのだから(これに関しては稚稿「デジタルネイティブという「誤解」 - Thirのノート」で触れた)、根本的な問題がここにあるとは思っていない(個人的には、氏は自分の持っているブランド力を活かす方向で進めたほうがいいのではないか、と思うけどね)。

私は、起業するためには金と人脈、一定の年齢が必要であると強く考え、また実感している。いくら株式会社がゼロ円で設立できるようになったと言っても、最初のクライアントを持つまでの資金源はどうしても必要になるし(また、開業にあたりいくらかの経費もかかる)、仕事を受け持つための人脈も必要であるし、何よりも年齢は一番の財産となる。まだ年を重ねていない状態で営業を申し込み、もし面接までこぎつけることが出来たとしても、彼らが評価しているのは「年齢」や「物珍しさ」だけだったりすることは非常に多い。しかし、そこに魅力的な案件やアイデアが眠っていない限り、彼らは見向きもしないだろう。また、相手となる企業は往々にして「若い=経験不足=最初から話半分でいこう」みたいな、マイナスのイメージから話をスタートさせる。そのうち資金が尽きる。VCや役所に頼ろうとも、若いので相手にされない。人脈を頼ることもできない。負のスパイラルすらおきず、全てはそこで終わる。なにはともあれ、年齢というのがマイナスに作用する局面というのは、意外と、というかかなり多い。少なくとも、学生という身分がプラスに作用する時代は、ライブドア堀江貴文氏を巻き込む一連の事件のあと、終局を迎えたのではないか。

いわゆる「社会の厳しさ」のようなものがあるとしよう。私は、それを過度に教えるべきではないと思う。けれども、これから働こうとする人間には、教えなくてはならないことがある。その一つがこれである。が、いろいろな人が「これからの時代は社会に仕事を提供することはメインとなる」みたいなことをそそのかし、必要なことを何も教えないまま、ただ夢だけを彼らに与えようとする。もちろん、それは彼らが夢だけを追いかけた結果ある程度成功しているからかもしれない。だが、夢は現実があって初めて機能するものだ。現実を教えないで、夢を追いかけることができるだろうか。

さらに不満を書き続ける。高校生や大学生のなかには、ただひたすら起業したいと思うだけで、なんとなく事業を立ち上げてしまう人がいる。そういう人が行うのは(あんまり人のこと言えないのだけれど)、決まって教育関連、SEOSEM関連、ソーシャルアプリ開発関連、学生マーケティング関連、ウェブデザインやホスティングの代行関連と相場がきまっている(これらをまとめて「意識の高い学生ホイホイ事業」と呼ぼう)。だがちょっとまってほしい。そういったことは、今すぐ会社を立ち上げなければできないことなのだろうか。個人事業主や学生団体ではいけないのか? 会社を作るということは、自分が意識しなければならない範囲というものが、格段に広がることを指す。責任をもってそれらをすべて統括することは、ろくな社会経験もない人間には酷なことである。また、学生が起業するということは、それらを本職としてやっている人間に対し、片手間に行うことで挑戦をする、ということでもある。ようするに、はじめからほぼ負けることが決定している戦いである。確率的に考えれば、彼らの一部、それもTwitter上でさかんに己の経歴のアピールを繰り返す人間は、己の鋼鉄のプライドを維持するために自分の会社を持っていると考えて過言ではない(一応いっておくが、もちろんそうじゃない人もいる)。そんな人間の言うことははじめから聞かないほうがいい。補足しておけば、誰がどういう人間なのかは、ここ数年のインターネットの進化によって、格段に考えやすくなっていることも考慮したい(いうなれば、この記事を信じるか信じないかも、あなた次第です、ということだ)。もちろん、画期的なアイデアを持っている場合は別だが。

彼の失敗から学ぶべきことというのは、そういうことだ。それに、私はこうも言いたい。このような状況を分析することができない人間が起業したところで、成功する確率は限りなく低いであろう、と。また、ある種の緻密さや狡賢さがあって初めて成立することを、やすやすと人にすすめることだけは避けるべきではないか、と。だが同時に、一度失敗を経験した人間は、上記のようなプライドダイヤモンドさんに比べれば、格段に強いとも思うのだ。一度の失敗は、それだけで必要な論理と柔軟性をすべてその人間に与えるのだから。

Facebookの致命的な弱点は何か?

日本でFacebookの普及を妨げているのは、実名主義ではない、かもしれない - in between daysを読んだ。本記事では、Facebookmixiのような流行につながらない理由として、匿名主義を排し、「インターフェースが日本人には不向きである」ということを第一に挙げている。

日本でFacebookの普及を妨げる要因があるとすれば、匿名・実名よりもむしろこの点、インターフェイスに対する違和感なのではないだろうか。実は、このあと説明するように、Facebookインターフェイスは実に良く出来ている。ただ、その方向性が、日本人には向いてないのかもしれない、とおもわないではないのだ。

基本的に、私はこの意見に対し口をはさむ気はない。また、日本人は匿名主義に陥っているためにFacebookのような「実名主義」のサービスには加入したくないのだ、という意見を支持する気もない(そもそも、昔はmixiだって実名登録を推奨していたのだ)。私は二点、決定的にfacebookmixi、ひいては日本の文化に対し合わない点があると考えている。

ひとつは、どう考えてもローカライズ、日本語対応の面であろう。Facebookでは自らの経歴を記述することが推奨されているが、例えば卒業高校ひとつとっても「東京高校」「東京高等学校」「私立東京高等学校」「Tokyo High School」などの表記が混在しており、我々はその中からどれが主たる表記であるかを瞬時に探すことができない。mixiの場合、コミュニティ検索を利用してメンバー数からおおよそどのコミュニティが主たるそれであるのかを推測することができるが、Facebookの場合、そこにたどり着くためには、入力画面から数ステップ必要となっている。名前の登録に関しても、漢字表記、ヘボン式ローマ字表記、日本式ローマ字表記などが入り混じっており、実名登録を推奨しているわりには記載方法が厳密に定められていないため、友人を見つけだすことが非常に難しい仕様となっている。もちろん、海外では我々が赤外線通信を行うのと同様の感覚で、Facebookの個人アドレスをやり取りするような文化があるのかもしれないが、そのような文化が築かれる前の段階を、日本ではクリアできそうにないのが今のFacebookローカライズ対応なのである。

もっとも、それ以上に思うことがある。それは、mixiが個人よりもグループに主眼を置いており、個人間のつながりに関しても、グループを介したそれを重視しているのに対し(もっとも、Facebookが広まり始めてからの「改悪」によってそうでもなくなってしまったのだが)、Facebookはむしろ直接的な個人と個人のつながりを重視しているという点である。mixiには、「コミュニティ」機能があり、多くの人物が自らの属性の表明や連絡のために「コミュニティ」機能を利用している。そう、属性の表明のために、一般的には自己紹介欄よりもコミュニティへの参加が選ばれることが多い。また、メンバーをグループ別に分ける機能や、日記などの公開範囲を選ぶような設定も存在しており、我々はそこで「グループの中の一人」ということを意識せずにはいられない。対してFacebookでは、属性はグループにあるのではなくあくまでも個人にあり、共通の属性を持った人間の集まりがグループとして認知されるような構造となっている。事実、彼らの提供するグループ機能はあくまでも「おまけ」的な位置づけに終止しており(知恵袋やOKWaveで検索すると、「Facebookにはmixiのようなグループ機能はないの?」という質問が山ほど出てくる)、mixiのように「コミュニティにも主眼が置かれている」ということはない。いや、探せばそのような機能は実はあるのだが、インターフェースの奥底に意図的に沈まされているのだ。*1
私は、別に「日本人は個人主義的ではない」等と結論付けるつもりはない。あくまでも、両者の思想が違うのだろう。mixiというのは、個人のつながりよりもコミュニティを維持することにも適しているが、Facebookは徹底的に個人のつながりを維持することに適している。それだけのことである。実際には、mixiFacebookも双方の機能を搭載していることにはしている。しかし、インターフェース上の設計を考察するかぎり、Facebookは明らかに個人に主眼を置いているのに対し、mixiはグループというものを重要視しているように思えるのだ。

これは、mixiはただ単にFacebook的なものが流行しているからと言って、その要素をやみくもに取り入れればいいわけではないことも表している。Facebookに欠けているものとしてのコミュニティ維持機能について、彼らはそれを一つの貴重な財産だと意識したうえで設計を行うべきなのではないか。そう考えると、Facebookが台頭したあとのmixiは、本当に迷走しているとしか言いようがない。トップページ、とくに新着通知部分はかなりfacebookに近づいたところがあるが、mixiFacebookのものまねをしたところで、Facebookが2バイト文字の不自由さを解消してしまえば、mixiの必要性などどこにもなくなってしまうのだから。

先ほどの記事では、「Facebookでの体験は友だちがすべてなのだ。」という一文で記事が締められていた。私はそこに、次の文を追加したい。そう、「mixiでの体験は、コミュニティがすべてだったのだ。しかし彼らはFacebookという『毒盃』をあおってしまったのだ」と。

*1:なお、もしかしたらこれはFacebookはもともと一つの大学のための専用SNSであったからかもしれない。

iPhone vs Androidを総括してみて、そして僕はなぜWindowsPhoneに期待するのか

2010年はまさにスマートフォンの年だったといってよいと思う。Xperia*1に始まり、iPhone4で加速し、「未来に行くなら、アンドロイドを持て。」を標語にau軍が攻勢をかけた。各社は「スマートフォン時代」に本腰を入れ始め、ついに我々の待ち望んだ未来がやってきたのだ。

……という具合だったが、個人的には面白くも何ともない一年だった。面白くないのはAndroidの態度である。

あらかじめ言っておくが、私は別にここの機能を取り上げて「ここはiPhoneに軍配が上がるがここではAndroidの勝利だ」などと続けていくつもりはない。ミクロな話ではなく、もっとマクロな話である。そう、設計理念の話だ。これからのスマホOSの理念の話をしようじゃないか。

iPhoneは、僕たちに何を教えたのか。あるいは、僕たちに何を「教え込んだ」のか。それは、「デファクトスタンダードの偉大さ」という一行にすべてを込めることができるのではないか。そして、スマートフォンデファクトスタンダードである「iOS+iPhone/iPad」の設計思想から少しでも外れた商品は、それだけで「使いづらい」製品に見えてしまうということではないか。
そしてなによりもAndroidにとって不幸だったのは、デファクトスタンダードとしてのiPhoneの完成度、満足度が高すぎたことである。この二つの要因によって、Androidは「とりあえずiPhoneを目指す」ということを目標としてしまったのではないか。しかし、「とりあえずiPhoneを目指す」と「iPhoneをまねる」は訳が違うのである。Androidには、iPhoneをモチーフに搭載されたにもかかわらず、iPhoneよりも使い勝手の悪い機能が多数存在する。

象徴的なのはハードボタンの配置である。iPhoneには、電源ボタンとホームボタンの二つしかボタンが存在しないのに対し、Android端末には多くのハードボタン、もしくは機能の固定されたソフトボタンが存在している。iPhoneは、「ハードボタンとマルチタッチパネルは相容れないものである」ということをはじめから意識し(あるいは意図的に相容れないようなデザインをとり)、「戻る」機能以外をハードボタンから排除した。その結果、我々は迷うことなく「ハードボタンを使うときと、タッチパネルを使うとき」を簡単に意識できるようになったのである。一方、Androidには多くのハードボタンがあり(しかも機種によって個数が違う!)、我々はこれらを使用するときに戸惑いを覚えずにはいられない。なにせ、ひとつひとつのボタンは「ハードボタン」、まさに機能を固定されたボタンにもかかわらず、使用しているソフトウェアによって別々の働きをすることがあり、それが我々に「基本機能」すら誤解させる仕組みになっているのである。ここにはハードボタンとタッチパネルの「区別」も明確には存在していない。もちろん、これはアップルが全面的に正しかったことを支持するものではない。アップルは巧みな開発とプレゼンによって我々に「そうすることが正しかったのだ」と刷り込んだにすぎない。しかし、iPhoneデファクトスタンダードとなってしまった以上、Androidは「完全にまねることもできないが、しかし…」という微妙な立ち居値をとらなくてはならなくなってしまった。「直感的」を突き進むアップルに対しては、その直感の角度を変えたモデルを投入するのではなく、別の「直感」を作り出すような働きをすべきではなかったのか。Androidに求められているのは、PSPPS3的な進化ではなく、Wii・DSのようなそれなのである。我々は、何か正統な進化というものが見え隠れしていて、なおかつそこにある種の閉塞感がある時、カウンターパンチのように繰り出される「古くて新しいもの」にめっぽう弱い生き物なのであるから。

Androidのこうした姿勢は、結局のところデファクトスタンダードなインターフェースを強化するだけなのである。おそらく、Androidは今後UMPCにおけるWindowsLinuxの立場を奪っていくことを想定しているであろうが、そのときインターフェースを変えようとしても、自分たちが強化してしまった「iPhoneモデル」がそこに立ちはだかってしまうのではないか、と私は危惧するのである。「良いところも悪いところも、とりあえずiPhoneを模倣してみて、まずはそこから考えよう」的なスタンスでは、シェアはとれるかもしれないが、使いやすさを得られるわけではない。PCの世界でいえば、WindowsというOSのもつ利点と、MacOSというOSのもつ利点の両者を併せ持った存在こそ、(かなり欲張りな要望ではあるが)スマートフォンという、肌身離さず使うものには必要とされている。

話を一つ前に戻そう。そこで出てくるのが「第三の選択」としてのWindowsPhone7である。WindowsPhone7は「タイル上のホーム画面」を用意し、iPhoneモデルとは違った「直感」を我々に提案しようとしているようにみえる。もちろん、WindowsPhone7は海外の販売で爆死してしまったという事実があるのだが、彼らががんばらない限り、スマートフォン業界にはもう「新しい風」は吹かないだろう。同様に、BlackBerryの新しい挑戦にも、我々は好意的にならなくてはならない。

「総括」と書いたものの、全く総括にならなくなってしまった。それに、かなり「iPhone信者」的なバイアスがかかってしまったようにも思える。ただ、私がいいたいのは「実際どちらが使いやすいか」という話ではなく、「iPhoneがこれだけ世界を圧巻してしまったがためにiPhoneをモデルとして作られたスマホOSが多くなり、その結果、iPhoneは全く『直感的』ではなく作られた『直感』を我々に提示しているだけにもかかわらず、あたかもそれが『本当の直感』のように受け止められている現状よくないよね、Androidはもうその罠にはまってるからWP7とBlackberryに期待だね」ということだと理解していただければ幸いである。

えーっと、この先はアップル信者の妄言。AndroidiPhoneのシェアを超える可能性はもちろんある。ただし、そこにあるのは、「シェアだけのWindows」と同じく、「シェアだけのAndroid」という点ではないかと思ってしまう。みんな個々に、しかし共通の不満を抱きながらAndroidを使い、隣のiPhone信者を「ぷぷぷー、昔はシェアトップだったのに転落してマイナーOSになって、今どんなキモチ?ねえねえどんなキモチ?」と、「シェア」を武器に語るしかない未来が、それが「未来に行くなら、アンドロイドを持て。」の真実なのか。

*1:HT-03Aのことはみんな忘れたよね...

デジタルネイティブという「誤解」

デジタルネイティブという言葉が生まれて何年が経っただろうか。最近、様々な事柄が「デジタルネイティブ」(本記事では、とくに「ネオ・デジタルネイティブ」と呼ばれる階層に焦点を当てている)の一言によって美化されてしまっているのではないか、と感じることがある。直近で言えば、「NewsWalker(ニュースウォーカー)|総合エンタメ情報サイト」という記事に代表されるように……。

正直この手の言葉の意味遷移、つまり「デジタルネイティブという言葉は昔はこういう風に使われていたのに…」ということを述べても意味がない。それは、これらの言葉は意味が同定されないことに意味があること、逆にそのことが「デジタルネイティブ」という言葉によって美化されている出来事を、よりその方向に加速させてしまいかねないためである。また、この記事では根本的な「デジタルネイティブ」批判をすることはないし、私は「デジタルネイティブ」という現象自体を批判する気はない。若者をとりまく環境はその人物の年代によって大きく変わってくるのは当然であり、その環境要因によって世代の性質が変化するのも当然であるからだ。私が強く心配するのは、「デジタルネイティブ」という言葉があまりにも好意的な意味を持ちすぎていること、それもほかのすべての弱点を帳消しするマジックワードのごとく使用されている点である。とはいえ、例えば「iPadで勉強するのはゲーム的でナンセンスだ」等というつもりはまったくない。デジタル化、デジタルネイティブは時代の課題でも流行でもなく方向である。私が批判したいのは、彼らの中で「あたりまえ」であることを「すごい!」といってもてはやす、その周りの人間たちの心性である。

簡潔にいおう。我々は、iPodiPhoneTwittermixiなどを活用している人物をそのまま「デジタルネイティブ」と名付けもてはやしていいのだろうか。確かにその中で、時代の先を行くような発想をする人物は出てくるだろうし、そのような人物こそ賞賛されるべきなのは間違いない。しかし、だ。「デジタルネイティブ」世代のほとんどは受動的に環境を享受しているだけであって、そのような人物は本当に少数である。このことは、いつの時代にも変わらぬ原則である。たしかに、デジタルネイティブ世代が成長するに従って育った別の環境要因(例えば起業が社会的な価値を持って認められるようになったなど)が作用したために、若干の変化はあったかもしれないが、あったといっても誤差程度ではないか。我々は、彼らの環境が我々のそれとあまりにも違いすぎているがために、単に違う環境を背負っているというその一点において、彼らを賞賛(もちろん否定も)してしまってはいないか。

環境を最大限生かして生きることは長所でもあるが、環境が目紛しく変わる現代においては大きな弱点にもなりうる。大多数の彼らのように、今いる環境を享受することに終止するようでは、その未来も果てがあるのではないか。私はそう思う。